第10話 溢れる気持ち、芽生えるもう一つの気持ち
涙の流れる顔を両手で覆って、あふれ出した気持ちを呟く。
「……彼に……会いたい……」
きっと、涙声で聞き取れなかったのだろう。
桜さんが近づいて、下から覗き込むように首をかしげる。
「ももちゃん?」
蘇芳さんに会いたい……そう言葉にしそうになった時――
「佐倉?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、通路の向こうからスーツ姿の紅谷さんがこちらに歩いてくる。
「佐倉、どうした?」
「紅谷さん、どうしてここに……?」
頬を伝う涙を腕で拭いやっと出たかすれた声で聞くと、紅谷さんは渋い顔をして私を見、それから私の隣に立つ桜さんに視線を移し、眉根を寄せる。
「あなたは……?」
「ももちゃんの友達です。失礼ですけど、あなたは?」
桜さんが静かな声で紅谷さんに尋ねる。
「佐倉のバイト仲間の紅谷です。ここには黒沢の飲み会に呼ばれて、さっき着いたんだ」
前半は桜さんに、後半は私を見て言った。
そっか、黒沢君が飲み会に呼んでいたのね。
「大丈夫か、佐倉?」
真剣に輝く瞳でまっすぐにこちらを覗きこみ、もう一度心配そうに声をかけてくれた紅谷さんのその声があまりに優しくて、一度は止まった涙があふれ出してくる。
私は必死に口を引き結んで涙をこらえて、首を横に振る。
とにかく桜さんから離れたくて、必死だった。このままここにいたら、きっと桜さんをなじってしまう。そんなこと、彼は望まないだろうに。
紅谷さんは着ていた背広を脱ぐと、優しく私の肩にかけ自分の方に引き寄せると、桜さんに言った。
「ちょっと、外で落ち着かせてくるから。黒沢に伝えてもらえるかな?」
「はい、わかりました」
そう言った桜さんを背に、ゆっくりと歩き出した紅谷さんの胸に支えられるように歩いた。
※
居酒屋やカラオケ、パチンコ店の入った駅前の商業ビルのワンフロアー。居酒屋が数店入ったフロアーの大通路のベンチに座る。
しばらくして、缶コーヒーを片手に二つ持った紅谷さんが戻って来て、一つを私に差し出した。
「ありがとうございます」
缶コーヒーを受け取り、お礼を言う。
カポッという音で缶の口をあけ、両手で缶を包んでコーヒーを口に含む。渋い香りと味が頭を鮮明にする。
「佐倉、何があった? どうして泣いていた……?」
そう聞かれて、俯く。
しばらくの沈黙の後、紅谷さんが思い出したように言う。
「さっきの子……うちの客、だった……?」
紅谷さんは眉間に皺を寄せ、怖いくらい強く光る瞳で空を睨んでいる。私は、そんな紅谷さんをそっと覗き見て息をのむ。
黒沢君は覚えてなかったけど、紅谷さんは……やっぱり覚えていたんだな。
「はい、“彼”と時々一緒に来ていた……彼の好きな人です。黒沢君の友達の彼女だったみたいで、今日の飲み会に来ていたんです」
「そっか。それで……思い出して、あいつのことで泣いてたんだな……」
後半は小さな声で呟いて、私にはよく聞こえなかった。
「まだあいつのことが好き?」
紅谷さんのその問いに、私は胸がざわついて、なんて答えたらいいのかわからなかった。
好き……だと思う、今朝、桜並木を見てそう思った。でも、最近彼のことを思い出す時はほんわかと暖かい気持ちになって、胸の奥の小さな宝箱に大切にしまっておきたい、そんな「好き」だと思う。
だけど、“彼女さん”に会ったら、胸がざわついた。
こんな曖昧な気持ちのまま、この恋を終わりにしちゃいけないような気がして。きっと彼に会えば、自分の今の気持ちもはっきりわかるんじゃないかって思って。でも、彼に会うことはもう二度とない……そう思ったら悲しくなった。
もっと彼と話していれば……もし連絡先を聞いていれば……そんな後悔ばかりが頭をよぎって、二年前の後ろ向きな自分に戻ってしまって、どうしたらいいかわからなかった。
「わかりません。ただ……彼に、もう一度だけでいいから、会いたいんです」
瞳に涙があふれてきて、かすれる声で言う。
そんな私を、紅谷さんが吸い込まれるような深い黒い瞳で見て、ふっと笑った。私はどうして紅谷さんが笑ったのかわからなくてキョトンと首をかしげる。
「会えるよ」
紅谷さんのその言葉の意味がわからなくて、紅谷さんを振り仰ぐ。紅谷さんはとても綺麗な笑顔で言う。その顔がどこか寂しそうに感じたのは気のせいだろうか。
「あいつ……梅田に会えるよ。今年の四月から復学してるらしい」
「えっ?」
「梅田の大学に後輩が通ってて、そいつに聞いた」
きまり悪そうに苦笑して、紅谷さんが言う。
「実は……二年前の梅田が最後に喫茶店に来た日、少し話したんだ。大学がどこか、とか、聞いた」
えっ?
いつもキッチンに入っててホールには出ないはずの紅谷さんが、彼と話してた?
どうして……?
頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。
「それで、後輩のつてで連絡先がわからないか聞いて、結局連絡先はわからなかった……いや、教えてもらえるって言われて断ったんだ」
そう言ってため息をついた紅谷さんは、髪をわしゃわしゃとかきむしって俯いた。
「その時には、佐倉も失恋に前向きに向き合って、前みたいに笑うようになってたから、今更蒸し返さなくていいかと、俺が勝手に判断して……悪かったと、思ってる。佐倉がまだ、あいつに恋してるって知らなくて……」
顔を上げた紅谷さんが、切ない瞳で私を見つめる。
「先月、その後輩から梅田が復学するって聞いた。佐倉を泣かせる前に、もっと早く教えてやるべきだったな……」
そう言ってふっと笑った紅谷さんの笑顔が、優しくて、たのもしくて、胸が熱く、ぎゅーっと締め付けられるように痛んだ。
「紅谷さんって、とても優しいですね。それに、たのもしくて。私、いつも紅谷さんの優しさに救われています。私が立ち直れたのは、紅谷さんのおかげですよ。本当にありがとうございます」
すると、紅谷さんはちょっと困った顔をして。
「どうせ褒めてくれるなら、もっと別の言葉がほしかったけど……」
そう言われて私が首をかしげると、紅谷さんは一瞬口をつぐみ、それから大きく息をはき、天井をあおいだ。
いったいなんと言ってほしかったのかしら?
「なんでもないよ」
そう言って紅谷さんは苦笑した。
私はそんな紅谷さんを不思議に思う。
「梅田はT大学だって言ってた。いつなら会えそうか、後輩に聞いてみようか?」
「はい、お願いします。私、彼に会ってみます」
「ああ」
静かにそう言った紅谷さんは正面を向いていて、その時の表情は分からなかった。