病理
兄は、人に好かれることを恥とも罪とも思わぬ男であった。
ただ好かれるのではない。女中にも、医者にも、借金取りにも、和尚にも、巡査にも、はては棺桶屋にまで、兄は笑いかけ、その笑いの裏で相手の魂の紐を、するすると指へ巻き取ってしまうのである。あれは親切な人だ、と町の者は言った。あれは気の毒な人だ、と女たちは言った。あれは少し頭が変だ、と男たちは言いながら、いざ兄が金を借りに来ると、いやな顔をする前に財布を出していた。
私はその兄を、幼いころから恐れていた。
兄の名は篤彦という。篤く彦々しいなどという、父のつけた名は、いかにも旧家の長男らしく聞こえる。しかし兄の中に篤実の気配はなかった。あるのは熱である。燃えるような熱、あるいは腐敗するときの温かさである。人はその熱に掌をかざして、暖かいと思う。しばらくしてから、自分の袖に火が移っていることに気づく。
弟の名は倫太郎。私はこの倫太郎である。
私は生まれつき肺が弱く、十三の年から血を吐いた。医師は、静養と滋養とを説いた。母は私の枕元へ牛乳を運び、父は帳場で舌打ちをした。兄だけが、私の痰壺を覗き込んで、きれいな赤だね、と言った。
「倫、お前のからだはずるいな。死にかけているだけで、皆から許される」
兄は笑ってそう言った。私はその言葉を聞いたとき、胸の奥に氷を入れられたような快さを覚えた。人は私を病弱で哀れな子と思った。しかし私自身は、兄が私の中に見つけたものを、もっと早くから知っていた。私は病人であることを憎みながら、それを利用することを知っていた。泣けば母が来た。咳をすれば父の怒声が止んだ。熱を出せば学校へ行かなくて済んだ。私は可哀想な子であり、その可哀想さの中で、家の者を静かに支配していた。
兄はそれを見抜いた。
だから私は兄を恐れた。兄だけが、私の白い顔の下にある薄黒いものを、まるで鏡のように照らしたからである。
わが家は、城下町の外れで薬種問屋を営んでいた。父は律儀な商人で、朝は卯の刻に起き、夜は亥の刻に帳面を閉じた。母は士族の出で、没落した家の娘らしく、箪笥の奥に古い袱紗をしまい、来客の前ではまだ武家の娘のような口を利いた。
兄は父に似ず、母にも似なかった。強いて言えば、家の中で飼っていた猫に似ていた。人の膝へ乗るくせに、撫でようとすると爪を立てる。腹を見せて眠るくせに、いつでも逃げる用意がある。
兄は十五のとき、町の師範学校へ入ったが、半年で退いた。理由は病ではない。教師を泣かせたのである。
その教師は、厳格を売り物にしていた男で、兄の作文を人前で嘲った。兄は黙っていた。翌日、兄は教師の家へ行き、その妻に花を持っていった。三日通った。五日目には、教師の妻は兄の前で夫の愚痴をこぼした。十日目には、教師の家の女中が兄へ手紙を届けるようになった。一月もしないうちに、教師は自分の家にいることが苦しくなり、学校でも怒鳴れなくなった。
兄は何もしなかった。ただ話を聞いたのである。ただ相槌を打ったのである。ただ相手が欲しがっている言葉を、少し遅れて、少し小さな声で与えたのである。
父は怒った。
「篤彦、お前は人を弄ぶ」
兄は畳へ両手をつき、しおらしく頭を下げた。
「父上、私はただ、人が寂しがっているのを放っておけないのです」
母は泣いた。父は黙った。私は布団の中で、声を立てずに笑った。兄は畳へ額をつけたまま、こちらへ片目だけを向けていた。その目は、まるで鼠をくわえた猫の目であった。
私は兄ほど人に好かれなかった。そのかわり、人に嫌われる必要もなかった。
私は病人であったから、何をしても半分は許された。私は小鳥を殺したことがある。庭の杏の木に巣を作っていた雀の雛を、竹竿で突き落とした。落ちた雛はまだ羽も生えそろわず、黄色い口を開けていた。私はそれを掌にのせ、温かい、と思った。温かいものが、私の指の中でだんだん冷えていく。その変化が面白かった。
女中のお幾が見つけて、悲鳴を上げた。
「若旦那、なんてことを」
私は咳をした。少し強く咳をした。喉の奥を爪で掻くようにして、血を混ぜた痰を出した。お幾は顔色を変え、雀のことを忘れた。母を呼びに走った。
その夜、兄が私の部屋へ来た。
「倫、お前は悪いことをするとき、いつも病気を使うね」
「兄さんは人の寂しさを使う」
兄はにやりと笑った。
「同じだ」
「違う」
「どこが」
「兄さんは相手を喜ばせる。僕は相手を困らせる」
「それで?」
「困った顔のほうが、嘘が少ない」
兄はしばらく私を見ていた。それから、私の額に手を置いた。熱はないね、と言った。私はその手を払いのけなかった。兄の手は乾いていて、妙に冷たかった。
「倫は長生きするよ」
「医者は長くないと言った」
「医者はからだを見る。僕は性根を見る」
兄は立ち上がった。
「お前の性根は、なかなか死なない」
その言葉は、私を侮辱したのか、祝福したのか、今でも判然としない。
父が死んだのは、私が十七、兄が二十一の春であった。
死因は脳溢血である。父は帳場で倒れ、右手に算盤の玉を握っていた。医師が来たときには、もう口の端が歪み、目だけが恐ろしく開いていた。母は泣き崩れた。兄は父の手から算盤の玉を一つずつ外した。私は襖の陰から見ていた。
葬儀の間、兄は見事であった。
弔問客へ深く頭を下げ、母を支え、僧侶の手配をし、帳面を調べ、香典の額を記した。誰もが、篤彦さんは立派になられた、と言った。父が生きている間、あれほど兄を危ぶんでいた親戚たちまで、掌を返したように兄を褒めた。
兄は泣かなかった。
いや、正確に言えば、泣くべき時にだけ泣いた。父の棺が門を出るとき、兄は一度だけ肩を震わせた。その震えは、見る者の胸を打つのに十分で、疑うにはあまりに短かった。
私は泣かなかった。
病人の私は、泣かなくても許された。顔色が悪いだけで、皆が勝手に悲しんでいると思ってくれる。便利なことだった。
夜、葬儀が済んでから、兄は父の座っていた帳場に坐った。
「倫」
「なに」
「家を売ろう」
私は驚かなかった。
「早いね」
「早いほうが高く売れる」
「母さんは」
「母さんは、由緒という病気にかかっている。あれは肺病よりたちが悪い」
「僕の肺病より?」
「お前のは役に立つ」
兄は帳面を閉じた。
「この家は父の棺桶だ。中に入ったままだと、皆で腐る」
私はその比喩を気に入った。家が棺桶であるなら、兄は蓋を開ける者であり、私は中からそれを眺める死人であった。
家は売られなかった。
母が泣いたからではない。親戚が反対したからでもない。兄が、ある女に会ったからである。
女の名は志津といった。年は兄より二つ上で、町医者の未亡人であった。夫に先立たれ、子もなく、白い顔をして、いつも黒い着物を着ていた。喪服というものは、着る者を貞淑にも淫らにも見せる。志津はその両方を心得ている女であった。
兄は薬の配達で志津の家へ行き、帰って来なかった。夕方になって戻ると、妙に静かな顔をしていた。
「兄さん、売る話は」
「しばらく置く」
「なぜ」
「面白くなった」
それから兄は、毎日のように志津の家へ通った。町の噂は早い。篤彦さんは未亡人に入れあげている。いや、未亡人のほうが篤彦さんに狂っている。薬種屋の跡取りが、あんな女に。あんな女とはどんな女かと問えば、皆、口を濁した。
私は志津を見たくなった。
病を理由にして、兄へ頼んだ。志津さんは医者の家だったのだろう、僕の咳を診てもらえないか、と。兄は私の意図を読んだのか、読まぬふりをしたのか、よかろうと言った。
志津の家は、川沿いの小さな屋敷であった。庭に枯れた芒があり、縁側に古い硝子戸があった。志津は奥の部屋から出てきた。細い女であった。目が大きい。唇が薄い。声が低い。
「弟さんね」
志津は私を見た。哀れむ目ではなかった。診る目でもなかった。値踏みする目であった。
「お体が弱いとか」
「ええ」
「お可哀想に」
そう言う声に、可哀想と思っている響きはなかった。私はこの女を、少し好きになった。
兄は志津の前で、いつもの兄であった。柔らかく笑い、相手の沈黙を怖がらず、言葉を急がず、志津が目を伏せれば同じように目を伏せた。二人は似ていた。人を操る者同士が、互いに操られるふりをしている。私は縁側で咳をしながら、それを見物した。
帰り道、兄が言った。
「どうだ」
「強い女だね」
「美しいだろう」
「美しいものは、たいてい強い」
「気に入ったか」
「兄さんが壊されるところを見たいと思った」
兄は声を上げて笑った。
「倫、お前は本当に病人らしくない」
「兄さんは本当に善人らしくない」
兄は笑いながら、私の背を軽く叩いた。その衝撃で咳が出た。咳は長く続き、血が混じった。兄は道端にしゃがむ私を見下ろしていた。通りすがりの老婆が心配そうに覗き込むと、兄はたちまち悲しげな顔になり、弟は体が弱くて、と言った。老婆は私に飴をくれた。
私は飴を川へ捨てた。
志津は兄を愛していなかった。
少なくとも、世間でいう愛ではなかった。彼女は兄の中に、自分と同じ欠損を見たのであろう。人を求めるふりをしながら、人を信じない者。寂しさを餌にして、他人の寂しさを釣る者。兄と志津は、互いの孤独を慰めたのではなく、互いの技量を試していた。
その勝負は、傍目には恋に見えた。
母は兄を叱った。
「あの方は未亡人です。世間体というものがあります」
兄は母の膝元に坐り、子供のように言った。
「母さん、世間体は父さんと一緒に葬ったでしょう」
母は絶句した。
私は笑いをこらえた。兄は母の残酷な部分を突くのがうまい。母は父を愛していたというより、父によって保たれる家の形を愛していた。父が死んだ後、その形を守ろうとする母は、まことに敬虔な墓守であった。
やがて、兄は志津を家へ連れて来た。
母は倒れそうになった。親戚は怒った。使用人たちは陰で囁いた。兄はそのすべてを、にこにこと受けた。志津は黒い着物のまま座敷へ上がり、母へ深く頭を下げた。
「ご迷惑は承知しております」
その声は美しかった。謝罪というものは、相手に優越を与える。志津は母へ優越を与えながら、同時に母の品位を試した。ここで怒鳴れば母は負ける。許せば苦しむ。母は許した。
私は部屋の隅で、その場面を見ていた。
志津は一度だけ私を見た。その目は、あなたも同類でしょう、と言っていた。
私は志津に近づくことにした。
兄を壊すには、兄の愛しているものを壊せばよい。いや、兄が本当に愛しているかどうかは問題ではない。兄が自分の技を尽くして手に入れようとしているものを、横から少し汚してやればよいのである。
私は病人である。病人には、女の部屋を訪ねる口実がある。薬のこと、咳のこと、眠れぬ夜のこと。志津は元医者の妻であり、私の話を聞かざるを得なかった。
志津は私に優しかった。
ただし、その優しさは兄のそれと違い、温度が低かった。兄の優しさは湯のようで、人を包む。志津の優しさは刃物の背のようで、触れれば冷たく、しかし切れない。切れるのは、こちらが油断して刃の側へ身を寄せた時である。
「倫太郎さんは、死ぬのが怖い?」
ある午後、志津は私にそう尋ねた。
「怖くありません」
「嘘ね」
「怖いと思うほど、死を信じていません」
「では何を信じているの」
「人の顔です」
「顔?」
「人は言葉では嘘をつく。行いでも嘘をつく。けれど、予期しない時の顔だけは、少し本当です」
志津は微笑した。
「あなたは嫌な子ね」
「よく言われます」
「誰に」
「兄に」
「篤彦さんは、あなたを可愛がっているわ」
「兄は何でも可愛がります。可愛がることで、相手を自分のものにする」
「あなたは?」
「僕は可愛がりません」
「なぜ」
「手間がかかるから」
志津は声を立てずに笑った。その笑いは、胸の中で紙を燃やすような音がした。
私はこの女を壊したいと思った。兄のためではない。私自身の退屈のためである。
町には、兄に捨てられた者が多かった。
捨てられたと言っても、兄は誰も捨てていない。兄はただ、少しずつ返事を遅らせ、少しずつ訪問を減らし、少しずつ視線を薄くしただけである。相手は勝手に、自分が捨てられたことを理解した。
その一人に、お絹という娘がいた。呉服屋の娘で、丸い頬をして、いつも赤い鼻緒の下駄を履いていた。兄は一時、この娘へ熱心に通った。お絹は兄を婿に欲しいとまで言ったらしい。ところが志津が現れると、兄はお絹を忘れた。
私はお絹へ手紙を書いた。
篤彦はあなたを忘れていません。ただ今は、家の事情で志津という女に縛られているのです。兄は苦しんでいます。あなたの真心だけが、兄を救うでしょう。
くだらない文章である。だが、人は自分の欲している嘘には簡単に騙される。
お絹は家へ来た。雨の日だった。赤い鼻緒が泥で汚れていた。母は困惑し、使用人は逃げ、兄は不在であった。志津が出て来た。
女二人は座敷で向かい合った。
私は襖の陰にいた。いつもの場所である。病弱な弟は、どこにいても見逃される。
「篤彦さんにお会いしたいのです」
お絹の声は震えていた。
「今は留守です」
「あなたが、あの方を惑わせているのでしょう」
志津は黙っていた。
「未亡人のくせに」
その言葉は幼く、そして鋭かった。志津の目が少し動いた。私は満足した。予期しない時の顔。それが出た。
ところが志津は、すぐに表情を戻した。
「お絹さん」
「なぜ私の名を」
「篤彦さんから聞いています」
これは嘘だと私は思った。しかしお絹は信じた。
「篤彦さんは、あなたを悪く言ったことがありません。可愛い人だとおっしゃっていました」
お絹の頬が赤くなった。
「では、なぜ」
「男の方は弱いものです。あなたが強くおなりなさい」
志津はそう言って、お絹の濡れた袖を拭いてやった。その仕草は姉のようであり、母のようであり、同時に勝者のようであった。
私は襖の陰で、初めて少し不安を覚えた。志津は兄と同じことができる。いや、兄より静かに、兄より残酷にできる。
お絹は泣きながら帰った。
夜、兄が戻ると、志津は何も言わなかった。兄も何も聞かなかった。ただ二人で茶を飲んだ。私はそれを見て、腹の底が冷たくなった。
私の企みは、彼らの遊戯を深めただけであった。
母の体調が崩れ始めた。
母は父の死後、急に老いた。そこへ兄と志津のことが重なり、夜眠れなくなった。食も細り、頬がこけた。医師は神経の疲れだと言った。兄は母の枕元で、優しく手を握った。
「母さん、私が悪いのです」
母は泣いた。
「篤彦、お前は昔から優しい子だったのに」
私はそれを聞いて、吐き気がした。優しい子。母は本当にそう思っているのか。いや、母はそう思いたいのだ。自分が産んだ長男が、人を弄ぶ奇妙な男であると認めるより、優しすぎて誤解される子であると思うほうが、母には楽なのである。
兄は母を救うふりをして、母から真実を見る力を奪っていた。
私は母を救いたいとは思わなかった。母は私を愛したが、その愛は私を病人という役柄に閉じ込めた。私は母の前で健康になることを許されなかった。熱が下がれば母は寂しそうにした。咳が止まれば、どこか不安げにした。母にとって私は、弱く、白く、いつか死ぬ子でなければならなかった。
だから私は、母が衰えるのを冷静に見ていた。
だが、兄が母の枕元で善人の顔をするのだけは許しがたかった。
「兄さん」
ある夜、廊下で兄を呼び止めた。
「母さんを殺す気か」
兄は足を止めた。
「物騒なことを言うね」
「兄さんの優しさは、毒に似ている」
「薬種屋の息子らしい譬えだ」
「毒は量で薬になる。兄さんは量を誤る」
兄は暗い廊下で、私を見た。
「倫、お前は母さんを愛しているのか」
「いいや」
「なら、なぜ怒る」
「兄さんが嘘をつくから」
「お前は嘘が嫌いか」
「嫌いじゃない。下手な嘘が嫌いだ」
兄は近づいてきた。私は少し息苦しくなった。兄の顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「僕の嘘は下手か」
「母さんには効く。僕には効かない」
「志津には?」
私は答えなかった。
兄はそれで十分だというように笑った。
「倫、お前は志津が好きなのか」
「壊したいだけだ」
「それを好きと言うんだよ」
兄の言葉は、私の胸に小さな穴をあけた。そこから息が漏れるような気がした。
志津が妊娠したという噂が流れた。
誰が流したのかは分からない。町の噂には、いつも父がなく、母が多すぎる。だが噂は、あっという間に家へ入り込んだ。母は半狂乱になった。親戚は怒鳴り込んだ。兄は黙っていた。志津も黙っていた。
私は志津の顔を見に行った。
彼女は縁側に坐り、白湯を飲んでいた。庭の芒は、冬を越してまだ立っていた。
「本当ですか」
「何が」
「子のことです」
志津は私を見た。
「あなたは、本当かどうかを知りたいのではないでしょう」
「では何を」
「本当だった時の、皆の顔が見たい」
私は笑った。
「あなたは僕をよく知っている」
「あなたは分かりやすいもの」
「兄より?」
「篤彦さんは、自分でも自分を騙す。あなたは自分を騙さない」
「褒めていますか」
「気味が悪いと言っているの」
私は胸が少し高鳴った。気味が悪い、と正しく言ってくれる者は少ない。可哀想、賢い、静か、繊細。人は私に、薄い紙のような言葉ばかり貼りつけた。志津はそれを剥がした。
「子は、いるのですか」
「さあ」
「自分の体でしょう」
「女の体は、女のものとは限らないわ」
その言葉の意味を、私はすぐには掴めなかった。志津は庭を見たまま続けた。
「夫が生きていた時、私は子を望まれた。夫が死ぬと、子がいなかったことを責められた。篤彦さんといると、今度は子ができたのではと噂される。私の腹は、いつも他人の物語を書く紙にされる」
私は初めて、志津を少し哀れに思った。すると、その瞬間に志津が嫌いになった。私は人を哀れむことが苦手である。哀れみは、相手と同じ地面に立つことを要求する。私はいつも、少し高い場所から人の顔を見ていたかった。
「では噂は嘘ですね」
「嘘かもしれないし、本当かもしれない」
「どちらでもいいのですか」
「どちらでも、人は私を許さないでしょう」
志津はそこで、わずかに笑った。
「許されないなら、どちらでも同じよ」
兄は変わり始めた。
人誑しの兄が、人を避けるようになった。客が来ても奥へ引っ込み、母の枕元にも長くいない。志津の家へ行く回数も減った。夜、帳場で一人坐り、父の古い算盤を弾いていた。
私は、その背中を見るのが楽しかった。
兄は初めて、自分の網に絡まっていた。人の寂しさを釣り、人の愛を集め、人の同情を食べてきた兄が、それらの糸に首を締められている。お絹は泣き、母は病み、親戚は怒り、志津は沈黙し、町は囁く。すべて兄が招いたものである。
しかし兄は、まだ美しかった。
破滅しかけた人間には、妙な光がある。正しい人間の光ではない。聖人の光でもない。燃え尽きる前の油の光である。私はその光に、目を離せなかった。
「倫」
帳場で兄が言った。
「僕はどうすればいいと思う」
「珍しいね。兄さんが人に聞くなんて」
「人ではない。お前に聞いている」
「僕は人じゃないの」
「お前は裁判官だ」
「裁判官は病人では務まらない」
「病人だから務まる。死に近い者は、少し公平になる」
私は笑った。
「僕ほど不公平な人間はいない」
「知っている。だから聞く」
兄は算盤の玉を弾いた。
「志津を捨てるべきか」
「捨てられると思う?」
「分からない」
「兄さんは、捨てるのがうまいでしょう」
「今回は違う」
「なぜ」
「僕が、捨てられる側かもしれない」
私は黙った。兄がその言葉を口にしたことに、私は軽い驚きを覚えた。
「怖いの」
「怖い」
兄は即座に言った。
その正直さは、私を不快にした。兄はもっと嘘をつくべきであった。最後まで、人を欺く美しい獣であるべきであった。恐怖を認める兄は、ただの人間に見えた。
「じゃあ死ねば」
私は言った。
兄は顔を上げた。
「死ねば、誰にも捨てられない。父さんみたいに、皆が勝手に意味をつけてくれる」
沈黙が落ちた。
言った後で、私は自分の言葉が兄の中のどこへ刺さったかを見た。予期しない時の顔。兄の顔から、一瞬だけ表情が消えた。
私は勝ったと思った。
しかし次の瞬間、兄は笑った。
「倫」
「なに」
「お前は僕を愛しているね」
私は立ち上がった。咳が出た。長く、深い咳だった。血の味がした。
母が死んだ。
父の時と違い、母の死はゆっくり来た。灯火が少しずつ細くなるように、母は痩せ、声を失い、最後には目だけで兄を探した。私のことも見た。しかし母の目は、私を見ながら、私の背後の病を見ていた。母は最後まで、私自身ではなく、私の弱さを愛した。
兄は母の手を握っていた。
「篤彦」
母はかすれた声で言った。
「はい」
「倫を、頼みます」
兄は私を見た。
「はい」
母は安心したように息を吐いた。そして死んだ。
私はその時、母より兄を見ていた。兄は泣かなかった。泣くべき時に泣く余裕もなかったのだろう。母の死は、兄の舞台を奪った。観客は少なく、拍手もなかった。ただ夜の部屋で、痩せた女が一人、息を止めただけである。
葬儀は簡素に済んだ。
親戚は、兄を責める言葉を胸に隠したまま焼香した。志津は来なかった。お絹も来なかった。父の葬儀であれほど賑わった家は、母の葬儀ではしんとしていた。家というものは、主を二人失うと、急に建物になる。
夜、兄は母の部屋にいた。
「兄さん」
「うん」
「母さんは、兄さんを許して死んだね」
「そうかな」
「許された気がする?」
「しない」
「なぜ」
「母さんは、何も知らなかったから」
兄は母の枕を見つめていた。
「知らない者に許されても、何にもならない」
その言葉は、兄にしては正しかった。正しすぎて、私は嫌になった。
志津が家へ来たのは、母の四十九日も済まぬ頃であった。
彼女は黒い着物ではなく、薄鼠色の着物を着ていた。喪が少し薄まった色。あるいは、喪そのものが古びた色。兄は彼女を座敷へ通した。私は隣の部屋で聞いていた。
「しばらく会えなかったね」
兄の声は乾いていた。
「ええ」
「子は」
「いません」
短い沈黙。
「そうか」
「安心した?」
「分からない」
「私は安心したわ」
兄は何も言わなかった。
「篤彦さん、もう終わりにしましょう」
私は襖のこちらで、息を止めた。
「なぜ」
「飽きたから」
志津の声は静かだった。
「あなたもでしょう」
「僕は」
「あなたは、人に求められている間だけ、その人を愛せる。私があなたを求めなくなれば、あなたは私を愛せない」
「それは君も同じだ」
「そうね」
兄は笑った。乾いた笑いであった。
「似た者同士は、幸せになれないのか」
「似た者同士だから、幸せの真似が長く続かなかっただけよ」
私は志津の勝ちだと思った。彼女は兄に、兄自身を説明してみせた。兄の得意な刃を、兄の喉へ当てたのである。
その時、私は襖を開けた。
二人がこちらを見た。
「志津さん」
「何かしら」
「僕を連れて逃げませんか」
言った瞬間、兄の顔が変わった。志津も、初めて本当に驚いた顔をした。
私は楽しかった。
「僕は長く生きません。荷物にはなりません。兄さんより、ずっと簡単です」
兄が立ち上がった。
「倫」
「兄さんは捨てられるのが怖い。僕は捨てられても構わない。だって初めから、誰のものでもないから」
志津は私を見ていた。その目に、憐れみはなかった。恐怖もなかった。ただ、薄い興味があった。
「本気?」
「本気かどうかは、退屈してから分かります」
兄が私の腕を掴んだ。強い力だった。病人の骨は細い。私は痛みに顔をしかめたが、声は出さなかった。
「やめろ」
「兄さん、痛い」
私はわざと弱い声を出した。兄は手を離した。志津がそれを見た。私は勝ったと思った。
しかし志津は立ち上がり、私の前へ来て、低い声で言った。
「あなたは、篤彦さんより幼い」
私は頬を打たれたような気がした。
「幼い?」
「ええ。人を壊せば、自分が強くなったと思っている」
「違う」
「違わないわ」
志津は私の顔を覗き込んだ。
「あなたは病気を楯にして、安全な場所から石を投げているだけ。篤彦さんは火の中へ入る。だから醜くても、まだ人間よ」
私は咳をした。血が出た。今度は芝居ではなかった。
志津は兄へ向き直った。
「さようなら」
兄は何も言わなかった。
志津は去った。足音は静かで、振り返らなかった。
その夜から、兄は眠らなくなった。
帳場に坐り、母の部屋に入り、庭へ出て、また帳場へ戻る。酒を飲むわけでもない。泣くわけでもない。ただ、家の中を歩いた。家は本当に棺桶になっていた。父と母を納め、兄と私をまだ生きたまま閉じ込めている。
私は高熱を出した。
志津の言葉が、私の中で膿んだ。幼い。安全な場所から石を投げている。私はそれを否定したかった。しかし否定の言葉が見つからなかった。私は病人であることを憎んでいた。だが、それを捨てたら、私には何が残るのか。
病弱な体。冷たい観察。人の困った顔を好む性根。
それだけである。
兄は私の部屋へ来た。
「熱が高い」
「医者を呼ぶ?」
「呼ばないでほしいのか」
「どちらでも」
兄は水を飲ませた。手つきは不器用だった。兄は人の心を扱うのは巧いが、病人の体を扱うのは下手である。私は少しむせた。
「兄さん」
「何」
「僕は幼いかな」
兄は黙っていた。
「答えて」
「幼い」
私は目を閉じた。
「兄さんも?」
「僕は、老いている」
「二十一で」
「人に好かれようとしすぎた者は、早く老いる」
兄は私の額の手拭いを替えた。
「倫、お前は僕を死ねと言ったね」
「うん」
「あれは、まだ有効か」
私は目を開けた。兄の顔は静かだった。あまりに静かで、私は少し怖くなった。
「兄さんは死なない」
「なぜ」
「人に見られない死に方は、兄さんに似合わない」
兄は笑った。
「よく分かっている」
その笑いを見て、私は安心した。兄はまだ兄であった。狂った人たらしで、善人の仮面を持ち、どんな破滅にも少し舞台を求める、私の兄であった。
兄は家を売ることにした。
今度は誰も止めなかった。母は死に、親戚は呆れ、使用人は次の奉公先を探していた。薬種問屋の看板は外され、蔵の薬草は同業者へ安く売られた。父の帳面も、母の箪笥も、私の古い教科書も、値段をつけられて他人の手へ渡った。
人の暮らしは、驚くほど簡単に物になる。
兄は売却の手続きを見事に進めた。相手はまた兄を信じた。あんなに噂のある男なのに、実際に会うと、皆が気を許す。兄は衰えてもなお、人をたらす力を失っていなかった。
「東京へ行こう」
兄が言った。
「僕の体で?」
「東京には病人が多い。目立たない」
「兄さんは何をするの」
「何でもする」
「何でもできる人は、たいてい何にもできない」
「知っている」
兄は妙に晴れやかな顔をしていた。
「それでも、ここにいるよりましだ」
私は町を出ることに反対しなかった。志津も、お絹も、母の墓も、父の帳場も、この町には見るものが多すぎた。私は新しい場所で、新しい顔を見たかった。
出発の日、兄は最後に志津の家へ行った。
私は駅で待っていた。兄は発車の少し前に戻った。手ぶらであった。
「会えた?」
「会えた」
「何を言ったの」
「ありがとう、と」
「志津さんは」
「笑った」
「それだけ?」
「それだけ」
列車が来た。煙が空へ汚く伸びた。私はその煙を美しいと思った。美しいものは、たいてい汚れている。
東京は、私に優しくなかった。
空気は悪く、人は多く、部屋は狭かった。兄と私は本郷の裏通りに下宿した。兄は新聞社の雑用係になり、しばらくしてから翻訳の真似事を始めた。外国語はろくに読めないくせに、辞書を引きながら、もっともらしい文章を書いた。それが意外にも受けた。
兄は東京でも好かれた。
編集者に好かれ、女給に好かれ、貧乏学生に好かれ、質屋の親父にまで好かれた。地方の薬種屋の息子であった兄は、東京で少し文学者のような顔をするようになった。実際、兄の書く短い随筆は評判になった。人の哀しみを、実に巧みに書くのである。自分では一滴も信じていない哀しみを、読者が自分のものと思えるように書く。
私は下宿で寝ていた。
医者は、転地が悪かったと言った。肺はさらに悪くなり、夜ごと熱が出た。私は畳の上で、隣室の学生が暗唱する独逸語を聞き、通りを行く下駄の音を数えた。兄は帰ると、その日会った人間の話をした。
「今日の編集長は面白かった。威張っているが、家では娘に嫌われている顔だ」
「女給は?」
「一人、泣かせた」
「また?」
「泣きたい人間に、泣く場所を与えただけだ」
「便利な言葉だね」
兄は笑った。
東京へ来ても、私たちは変わらなかった。ただ舞台が変わっただけである。
ある日、兄は一冊の雑誌を持って帰った。そこに兄の随筆が載っていた。題は「病める弟」。私は読んだ。
そこには、薄幸で、清らかで、死を静かに待つ弟がいた。兄を慕い、母を恋しがり、夜ごと神に祈る弟がいた。
私は雑誌を閉じた。
「兄さん」
「うん」
「これは誰」
「お前だ」
「違う」
「読者は本当のお前を要らない」
「兄さんも?」
「僕は本当のお前を知っている」
「知っていて、嘘を書く」
「嘘のほうが、皆を救うことがある」
私は笑った。咳き込みながら笑った。
「兄さんは、ついに僕まで人たらしの道具にしたんだね」
「怒ったか」
「いいや」
私は本当に怒っていなかった。むしろ感心した。兄は人の寂しさだけでなく、私の病まで商品にした。父の薬草より、母の由緒より、私の血痰のほうが東京では高く売れるらしい。
「続ければいい」
「いいのか」
「ただし、もっと美しく書いて」
兄は私を見た。
「お前は本当に、性根が死なない」
「兄さんがそう言った」
兄の名は少しずつ売れた。
篤彦ではなく、篤山という筆名であった。篤山の文章は、清潔な不幸を好む読者に受けた。貧しさ、病、家族、故郷、死。兄はそれらを、手袋をはめた手で丁寧に撫でた。撫でられた不幸は、紙の上で上品になった。
私は兄の材料であった。
兄は私の咳を聞き、熱を測り、私の言葉を盗んだ。私はそれを許した。ときには、わざと使えそうなことを言った。
「人は死ぬ時、自分の人生ではなく、他人の顔を思い出すのかもしれない」
兄はすぐ手帳を出した。
「今の、もう一度言って」
「金をくれる?」
「薬を買う」
「なら安いね」
兄は笑い、私は言葉を売った。
不思議な共同生活であった。兄は私を美化し、私は兄の美化を監督した。兄があまりに私を清らかに書くと、私は文句を言った。
「ここは嘘が薄い。もっと厚く塗らないと、本当に見えない」
兄は真面目に頷いた。
私たちは互いを軽蔑し、互いを必要としていた。兄は私の病を、私は兄の筆を。兄の文章の中で、私は少しずつ死へ近づいた。現実の私は、なかなか死ななかった。
志津から手紙が来た。
東京へ移って二年目の秋である。封筒の字は細く、乱れがなかった。兄はその手紙を、しばらく開けずに眺めていた。
「読まないの」
「読んでほしいか」
「兄さんの顔が見たい」
「悪趣味だ」
「今さら」
兄は封を切った。読み終えるまで、顔は変わらなかった。読み終えてからも変わらなかった。だから私は、手紙の内容が重いことを知った。
「何て」
「結婚するそうだ」
「誰と」
「県会議員の男」
「志津さんらしくない」
「志津らしいよ」
兄は手紙を私へ渡した。
そこには、簡潔な報告だけがあった。結婚すること。町を離れること。あなたの随筆を読んだこと。病める弟君によろしく。
最後の一行を読んで、私は笑った。
「病める弟君だって」
「君づけされている」
「志津さんは知っているんだね」
「何を」
「兄さんが僕を売っていること」
「売っているとは書いていない」
「書かないところが志津さんだ」
兄は手紙を火鉢へ投げた。紙はすぐ燃えず、黒く縮れ、青い火を少し出してから灰になった。
「兄さん、まだ好き?」
「分からない」
「便利な答えだ」
「本当に分からない」
兄は窓を開けた。秋の冷たい空気が入った。私は咳をした。
「志津は、僕を壊さなかった」
「そうかな」
「壊れるところまで行かなかった。僕は逃げた」
「兄さんは逃げ足が速い」
「お前は逃げないのか」
「この体で?」
「体のことではない」
私は答えなかった。逃げる場所など、私にはなかった。病からも、兄からも、自分からも。
兄が酒を飲み始めた。
それは破滅のためではなく、社交のためであった。酒席で兄はますます魅力的になった。酔うと少し弱みを見せる。弱みを見せる者は好かれる。ただし兄の弱みは、見せるために整えられた弱みであった。乱れた髪も、震える声も、ふとした沈黙も、すべて計算されているように見えた。
しかし、計算と本心の境は次第に曖昧になった。
兄は夜更けに帰り、私の布団の横へ倒れることがあった。
「倫、僕は空っぽだ」
「知っている」
「皆、僕の中に何かあると思っている」
「あるよ」
「何が」
「相手が欲しがっているもの」
兄は笑った後、泣いた。初めて見る泣き方であった。泣くべき時の涙ではない。誰にも見せるつもりのない涙。それでも私に見せている以上、完全に本物とは言えない。私はその涙を観察した。
「倫、お前は僕が死んだら泣くか」
「泣かない」
「薄情だね」
「泣いたら兄さんが喜ぶから」
「死んでいるのに?」
「兄さんは死んでも、人の反応を気にしそうだ」
兄はまた笑った。
「その通りだ」
私は兄の髪に白いものを見つけた。まだ二十代半ばである。それなのに兄は、ほんとうに老い始めていた。人に好かれることは、体力を食う。人の欲望を映し続ける鏡は、早く曇る。
私の病状は悪化した。
冬の初め、私は大量に喀血した。洗面器が赤くなった。下宿の女将が悲鳴を上げ、医者が呼ばれた。医者は私の胸を聴き、兄を廊下へ呼んだ。声は聞こえなかったが、兄の顔で内容は分かった。
長くない。
私はその言葉を、何度も聞いてきた。十三の時も、十七の時も、東京へ来た時も。長くないと言われ続けて、私は長く生きた。だから今度も信じなかった。ただ、体は正直であった。息をするたび、胸の中で古い紙が破れるような音がした。
兄は私の看病を始めた。
仕事を減らし、酒席を断り、薬を煎じ、夜中に私の咳で起きた。私は兄に言った。
「美談にするつもり?」
「何を」
「病める弟を看取る兄」
「書かない」
「嘘だ」
「本当に書かない」
「なぜ」
兄はしばらく考えた。
「お前が死んだら、書けない気がする」
「兄さんらしくない」
「僕もそう思う」
私は兄を見た。兄の顔は痩せ、目の下に影があった。人たらしの美しい皮膚は剥がれ、その下から、疲れた男が出てきていた。
「兄さん」
「何」
「僕が死んだら、泣いてもいいよ」
「許可制か」
「ただし、一人で泣いて」
「なぜ」
「人に見せると、兄さんは嘘を混ぜるから」
兄は黙って頷いた。
死は、思ったより退屈に近づいて来た。
劇的なことは何も起こらない。天啓もない。悔悟もない。ただ、朝起きるのが少しずつ難しくなり、水を飲むのにも力が要り、窓の外の空が遠くなる。私は自分の中の残酷さが、病と一緒に薄まるのを感じた。それは善人になることではなかった。ただ、悪意にも体力が必要だったのである。
兄は毎晩、私の横で本を読んだ。
ある夜、私は兄に頼んだ。
「志津さんに手紙を書いて」
「何と」
「病める弟君が死にそうです、と」
「悪趣味だ」
「最後くらい、僕にも舞台を」
兄は筆を取った。しかし書かなかった。
「やめよう」
「なぜ」
「志津を呼んでも、お前は救われない」
「救われたいわけじゃない」
「知っている」
「じゃあ何」
「僕が見たくない」
兄は正直であった。私は笑った。兄が自分の都合を隠さず言うようになるとは、東京へ来た甲斐があったというものだ。
「兄さん、変わったね」
「醜くなった」
「人間らしくなった」
「お前に言われると、悪口に聞こえる」
「悪口だよ」
二人で少し笑った。笑うと私は咳き込み、兄は慌てて背を支えた。その手は、昔より温かかった。
私は死ななかった。
春になって、少し持ち直した。医者は不思議がり、兄は呆れ、私は退屈した。死ぬ死ぬと言いながら死なない病人ほど、周囲に迷惑なものはない。私もそう思った。
兄は再び書き始めた。しかし以前とは文が違った。清潔な不幸ではなく、汚れた生がそこにあった。人に好かれようとして空っぽになった男。病を楯にして人を傷つける弟。死んだ母。逃げた女。売られた家。そういうものを、兄は飾らずに書こうとした。
当然、評判は悪かった。
編集者は困った顔をした。読者は離れた。兄を褒めていた者たちは、急に難しい顔をした。篤山先生は近頃荒れている。昔のしみじみした味がなくなった。もっと美しいものを書いてほしい。
兄は笑った。
「倫、僕は下手になったらしい」
「正直になっただけだ」
「正直な文章は売れない」
「嘘も下手になった」
「致命的だ」
兄は本当に困っていた。しかしどこか楽しそうでもあった。人に好かれることを生業にしてきた兄が、初めて人に嫌われる練習をしていた。
私はその姿を、少し羨ましいと思った。
ある梅雨の夜、兄は帰らなかった。
朝になっても帰らない。昼になっても帰らない。私は下宿の女将に頼んで、新聞社へ使いを出した。兄は前夜、酒席の後で一人帰ったという。
夕方、警察から知らせがあった。
兄は川で見つかった。
死んではいなかった。橋の欄干にもたれて倒れていたという。酒に酔い、雨に濡れ、高熱を出していた。私は人力車で病院へ行った。今度は私が見舞う番であった。
兄は病室の白い寝台に横たわっていた。顔色は悪く、唇が乾いていた。私より病人らしかった。
「死に損なった?」
私が言うと、兄は薄く目を開けた。
「違う」
「じゃあ何」
「眠かった」
「橋で?」
「うん」
私は笑った。
「兄さんらしくない死に方だ」
「だから死ななかった」
兄は天井を見た。
「倫、僕はもう人に好かれるのが面倒だ」
「遅いね」
「遅い」
「でも、やめられる?」
「分からない」
「またそれだ」
「本当に分からないことばかりになった」
兄の声は弱かった。私はその弱さを、今度は利用しようと思わなかった。利用するには、私も疲れすぎていた。
兄は回復したが、以前のようには戻らなかった。
酒をやめ、社交を減らし、文章もあまり書かなくなった。代わりに、近所の子供へ読み書きを教えた。金にはならない。名にもならない。子供たちは兄に懐いた。兄は子供にまで好かれるのかと、私は少し呆れた。
だが、その好かれ方は昔と違った。
兄は子供を操ろうとしなかった。泣く子を泣かせたままにし、怒る子を怒らせたままにした。慰めの言葉を急がなかった。相手が欲しがっている言葉を、以前ならすぐ与えた兄が、今は黙っていることを覚えた。
「兄さん、つまらなくなったね」
「そうか」
「うん。ずいぶん善人みたいだ」
「善人ではない」
「知っている」
「ただ、少し疲れた」
兄は庭先で子供の書いた字を直していた。下手な字だった。兄はそれを笑わなかった。
私は縁側で咳をした。春の光が白かった。私はまだ生きていた。病弱という役柄にも、少し飽きていた。だが人間は、飽きたからといって自分を脱げるわけではない。
志津の訃報が届いた。
結婚先で病み、亡くなったという。子はなかった。享年三十二。手紙を寄越したのは、彼女の夫であった。生前、篤彦様には一度知らせてほしいと申しておりました、と事務的に書かれていた。
兄は手紙を読んで、長く黙っていた。
「行くの」
「葬儀はもう済んでいる」
「墓参りは」
「行かない」
「なぜ」
「志津は、僕が墓の前でどんな顔をするかまで、見透かしていそうだ」
「死んでいるのに」
「死んだ者は強い。反論しないから」
私は笑った。
「兄さんはまだ志津さんに負けている」
「そうだね」
兄は素直に認めた。
その夜、兄は一人で泣いた。隣の部屋だったから、私には聞こえた。しかし私は見に行かなかった。私との約束を守ったのか、偶然かは分からない。兄は人に見せない涙を流していた。
私は布団の中で、それを聞きながら、志津の最後の顔を想像した。彼女は何を思って死んだのか。兄のことか。夫のことか。子のない腹のことか。それとも、私たちのことなど忘れて、ただ天井の木目を見ていたのか。
分からない。
私にも、分からないことが増えていた。
歳月は、人を罰するほど厳密ではない。
悪人が早く死ぬわけでもなく、善人が必ず報われるわけでもない。兄は狂った人たらしのまま少し静かになり、私は病弱なサイコパスのまま少し鈍くなった。それを成長と呼ぶ者もあるだろう。堕落と呼ぶ者もあるだろう。私はどちらでもよい。
兄は三十を過ぎて、また文章を書くようになった。
今度の文章は売れなかったが、少数の読者には届いた。そこには美しい病人も、清らかな母も、悲劇の恋人もいなかった。ただ、どうしようもなく人に好かれたい男と、どうしようもなく人を試したい弟がいた。二人は互いに傷つけ合い、互いを鏡にし、互いを軽蔑しながら、なぜか一緒に暮らしている。
私はそれを読んで、兄に言った。
「少し本当になったね」
「全部ではない」
「全部本当の文章なんて、気持ちが悪い」
「お前が言うと説得力がある」
兄は笑った。
私はまだ咳をしていた。医者は相変わらず、長くないと言った。私は相変わらず、長くない人生を長く生きていた。
最後に、兄のことを書いておく。
兄は善人ではなかった。悪人とも少し違う。兄は人の心に入る戸口を、生まれつき知っていた。寂しさ、虚栄、同情、恋、罪悪感。どの戸口も、兄には鍵がかかっていなかった。兄はそこから入り、花を置き、火をつけ、また出てきた。
弟の私は、兄より清くなかった。私は人を愛するより先に観察し、助けるより先に試し、悲鳴より表情に興味を持った。病は私を弱くしたが、優しくはしなかった。弱さと優しさを取り違える者が多いから、私は生きやすかった。
私たちは、似ていた。
兄は人に近づきすぎて壊し、私は遠くから石を投げて壊した。兄は愛のふりで支配し、私は無関心のふりで支配した。兄は熱であり、私は冷気であった。どちらも、人を長く触れさせるものではない。
それでも、兄は私の水を替えた。私は兄の嘘を直した。兄は私の血を拭いた。私は兄の涙を見ないでおいた。
それを愛と呼ぶなら、愛という言葉はずいぶん不潔で、ずいぶん丈夫なものだと思う。
今、兄は隣の部屋で筆を走らせている。私は布団の中で、その音を聞いている。夜は深い。胸は苦しい。窓の外では、東京の雨が静かに降っている。
兄が何を書いているのか、私は知らない。
たぶん私のことだろう。たぶん自分のことだろう。たぶん、私たちのどちらでもない、読者が好みそうな哀れな兄弟のことだろう。
それでも構わない。
嘘は、最後まで嘘であれば、一つの真実に似る。
兄は人に好かれたかった。私は人を信じなかった。志津は誰にも許されなかった。母は知らぬまま死に、父は算盤の玉を握って死んだ。町は忘れ、東京は覚えず、紙だけが少し残る。
もしこの話を読む者があるなら、どうか私たちを憐れまないでほしい。
憐れみは、こちらを見下ろす者の贅沢である。
私たちは贅沢品ではない。
ただ、互いの病であった。
そして病というものは、治らぬ時にかぎって、患者の名をよく覚えている。




