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病理

作者: 倫太郎
掲載日:2026/05/31

 兄は、人に好かれることを恥とも罪とも思わぬ男であった。


 ただ好かれるのではない。女中にも、医者にも、借金取りにも、和尚にも、巡査にも、はては棺桶屋にまで、兄は笑いかけ、その笑いの裏で相手の魂の紐を、するすると指へ巻き取ってしまうのである。あれは親切な人だ、と町の者は言った。あれは気の毒な人だ、と女たちは言った。あれは少し頭が変だ、と男たちは言いながら、いざ兄が金を借りに来ると、いやな顔をする前に財布を出していた。


 私はその兄を、幼いころから恐れていた。


 兄の名は篤彦という。篤く彦々しいなどという、父のつけた名は、いかにも旧家の長男らしく聞こえる。しかし兄の中に篤実の気配はなかった。あるのは熱である。燃えるような熱、あるいは腐敗するときの温かさである。人はその熱に掌をかざして、暖かいと思う。しばらくしてから、自分の袖に火が移っていることに気づく。


 弟の名は倫太郎。私はこの倫太郎である。


 私は生まれつき肺が弱く、十三の年から血を吐いた。医師は、静養と滋養とを説いた。母は私の枕元へ牛乳を運び、父は帳場で舌打ちをした。兄だけが、私の痰壺を覗き込んで、きれいな赤だね、と言った。


「倫、お前のからだはずるいな。死にかけているだけで、皆から許される」


 兄は笑ってそう言った。私はその言葉を聞いたとき、胸の奥に氷を入れられたような快さを覚えた。人は私を病弱で哀れな子と思った。しかし私自身は、兄が私の中に見つけたものを、もっと早くから知っていた。私は病人であることを憎みながら、それを利用することを知っていた。泣けば母が来た。咳をすれば父の怒声が止んだ。熱を出せば学校へ行かなくて済んだ。私は可哀想な子であり、その可哀想さの中で、家の者を静かに支配していた。


 兄はそれを見抜いた。


 だから私は兄を恐れた。兄だけが、私の白い顔の下にある薄黒いものを、まるで鏡のように照らしたからである。





 わが家は、城下町の外れで薬種問屋を営んでいた。父は律儀な商人で、朝は卯の刻に起き、夜は亥の刻に帳面を閉じた。母は士族の出で、没落した家の娘らしく、箪笥の奥に古い袱紗をしまい、来客の前ではまだ武家の娘のような口を利いた。


 兄は父に似ず、母にも似なかった。強いて言えば、家の中で飼っていた猫に似ていた。人の膝へ乗るくせに、撫でようとすると爪を立てる。腹を見せて眠るくせに、いつでも逃げる用意がある。


 兄は十五のとき、町の師範学校へ入ったが、半年で退いた。理由は病ではない。教師を泣かせたのである。


 その教師は、厳格を売り物にしていた男で、兄の作文を人前で嘲った。兄は黙っていた。翌日、兄は教師の家へ行き、その妻に花を持っていった。三日通った。五日目には、教師の妻は兄の前で夫の愚痴をこぼした。十日目には、教師の家の女中が兄へ手紙を届けるようになった。一月もしないうちに、教師は自分の家にいることが苦しくなり、学校でも怒鳴れなくなった。


 兄は何もしなかった。ただ話を聞いたのである。ただ相槌を打ったのである。ただ相手が欲しがっている言葉を、少し遅れて、少し小さな声で与えたのである。


 父は怒った。


「篤彦、お前は人を弄ぶ」


 兄は畳へ両手をつき、しおらしく頭を下げた。


「父上、私はただ、人が寂しがっているのを放っておけないのです」


 母は泣いた。父は黙った。私は布団の中で、声を立てずに笑った。兄は畳へ額をつけたまま、こちらへ片目だけを向けていた。その目は、まるで鼠をくわえた猫の目であった。


 私は兄ほど人に好かれなかった。そのかわり、人に嫌われる必要もなかった。


 私は病人であったから、何をしても半分は許された。私は小鳥を殺したことがある。庭の杏の木に巣を作っていた雀の雛を、竹竿で突き落とした。落ちた雛はまだ羽も生えそろわず、黄色い口を開けていた。私はそれを掌にのせ、温かい、と思った。温かいものが、私の指の中でだんだん冷えていく。その変化が面白かった。


 女中のお幾が見つけて、悲鳴を上げた。


「若旦那、なんてことを」


 私は咳をした。少し強く咳をした。喉の奥を爪で掻くようにして、血を混ぜた痰を出した。お幾は顔色を変え、雀のことを忘れた。母を呼びに走った。


 その夜、兄が私の部屋へ来た。


「倫、お前は悪いことをするとき、いつも病気を使うね」


「兄さんは人の寂しさを使う」


 兄はにやりと笑った。


「同じだ」


「違う」


「どこが」


「兄さんは相手を喜ばせる。僕は相手を困らせる」


「それで?」


「困った顔のほうが、嘘が少ない」


 兄はしばらく私を見ていた。それから、私の額に手を置いた。熱はないね、と言った。私はその手を払いのけなかった。兄の手は乾いていて、妙に冷たかった。


「倫は長生きするよ」


「医者は長くないと言った」


「医者はからだを見る。僕は性根を見る」


 兄は立ち上がった。


「お前の性根は、なかなか死なない」


 その言葉は、私を侮辱したのか、祝福したのか、今でも判然としない。





 父が死んだのは、私が十七、兄が二十一の春であった。


 死因は脳溢血である。父は帳場で倒れ、右手に算盤の玉を握っていた。医師が来たときには、もう口の端が歪み、目だけが恐ろしく開いていた。母は泣き崩れた。兄は父の手から算盤の玉を一つずつ外した。私は襖の陰から見ていた。


 葬儀の間、兄は見事であった。


 弔問客へ深く頭を下げ、母を支え、僧侶の手配をし、帳面を調べ、香典の額を記した。誰もが、篤彦さんは立派になられた、と言った。父が生きている間、あれほど兄を危ぶんでいた親戚たちまで、掌を返したように兄を褒めた。


 兄は泣かなかった。


 いや、正確に言えば、泣くべき時にだけ泣いた。父の棺が門を出るとき、兄は一度だけ肩を震わせた。その震えは、見る者の胸を打つのに十分で、疑うにはあまりに短かった。


 私は泣かなかった。


 病人の私は、泣かなくても許された。顔色が悪いだけで、皆が勝手に悲しんでいると思ってくれる。便利なことだった。


 夜、葬儀が済んでから、兄は父の座っていた帳場に坐った。


「倫」


「なに」


「家を売ろう」


 私は驚かなかった。


「早いね」


「早いほうが高く売れる」


「母さんは」


「母さんは、由緒という病気にかかっている。あれは肺病よりたちが悪い」


「僕の肺病より?」


「お前のは役に立つ」


 兄は帳面を閉じた。


「この家は父の棺桶だ。中に入ったままだと、皆で腐る」


 私はその比喩を気に入った。家が棺桶であるなら、兄は蓋を開ける者であり、私は中からそれを眺める死人であった。





 家は売られなかった。


 母が泣いたからではない。親戚が反対したからでもない。兄が、ある女に会ったからである。


 女の名は志津といった。年は兄より二つ上で、町医者の未亡人であった。夫に先立たれ、子もなく、白い顔をして、いつも黒い着物を着ていた。喪服というものは、着る者を貞淑にも淫らにも見せる。志津はその両方を心得ている女であった。


 兄は薬の配達で志津の家へ行き、帰って来なかった。夕方になって戻ると、妙に静かな顔をしていた。


「兄さん、売る話は」


「しばらく置く」


「なぜ」


「面白くなった」


 それから兄は、毎日のように志津の家へ通った。町の噂は早い。篤彦さんは未亡人に入れあげている。いや、未亡人のほうが篤彦さんに狂っている。薬種屋の跡取りが、あんな女に。あんな女とはどんな女かと問えば、皆、口を濁した。


 私は志津を見たくなった。


 病を理由にして、兄へ頼んだ。志津さんは医者の家だったのだろう、僕の咳を診てもらえないか、と。兄は私の意図を読んだのか、読まぬふりをしたのか、よかろうと言った。


 志津の家は、川沿いの小さな屋敷であった。庭に枯れた芒があり、縁側に古い硝子戸があった。志津は奥の部屋から出てきた。細い女であった。目が大きい。唇が薄い。声が低い。


「弟さんね」


 志津は私を見た。哀れむ目ではなかった。診る目でもなかった。値踏みする目であった。


「お体が弱いとか」


「ええ」


「お可哀想に」


 そう言う声に、可哀想と思っている響きはなかった。私はこの女を、少し好きになった。


 兄は志津の前で、いつもの兄であった。柔らかく笑い、相手の沈黙を怖がらず、言葉を急がず、志津が目を伏せれば同じように目を伏せた。二人は似ていた。人を操る者同士が、互いに操られるふりをしている。私は縁側で咳をしながら、それを見物した。


 帰り道、兄が言った。


「どうだ」


「強い女だね」


「美しいだろう」


「美しいものは、たいてい強い」


「気に入ったか」


「兄さんが壊されるところを見たいと思った」


 兄は声を上げて笑った。


「倫、お前は本当に病人らしくない」


「兄さんは本当に善人らしくない」


 兄は笑いながら、私の背を軽く叩いた。その衝撃で咳が出た。咳は長く続き、血が混じった。兄は道端にしゃがむ私を見下ろしていた。通りすがりの老婆が心配そうに覗き込むと、兄はたちまち悲しげな顔になり、弟は体が弱くて、と言った。老婆は私に飴をくれた。


 私は飴を川へ捨てた。





 志津は兄を愛していなかった。


 少なくとも、世間でいう愛ではなかった。彼女は兄の中に、自分と同じ欠損を見たのであろう。人を求めるふりをしながら、人を信じない者。寂しさを餌にして、他人の寂しさを釣る者。兄と志津は、互いの孤独を慰めたのではなく、互いの技量を試していた。


 その勝負は、傍目には恋に見えた。


 母は兄を叱った。


「あの方は未亡人です。世間体というものがあります」


 兄は母の膝元に坐り、子供のように言った。


「母さん、世間体は父さんと一緒に葬ったでしょう」


 母は絶句した。


 私は笑いをこらえた。兄は母の残酷な部分を突くのがうまい。母は父を愛していたというより、父によって保たれる家の形を愛していた。父が死んだ後、その形を守ろうとする母は、まことに敬虔な墓守であった。


 やがて、兄は志津を家へ連れて来た。


 母は倒れそうになった。親戚は怒った。使用人たちは陰で囁いた。兄はそのすべてを、にこにこと受けた。志津は黒い着物のまま座敷へ上がり、母へ深く頭を下げた。


「ご迷惑は承知しております」


 その声は美しかった。謝罪というものは、相手に優越を与える。志津は母へ優越を与えながら、同時に母の品位を試した。ここで怒鳴れば母は負ける。許せば苦しむ。母は許した。


 私は部屋の隅で、その場面を見ていた。


 志津は一度だけ私を見た。その目は、あなたも同類でしょう、と言っていた。





 私は志津に近づくことにした。


 兄を壊すには、兄の愛しているものを壊せばよい。いや、兄が本当に愛しているかどうかは問題ではない。兄が自分の技を尽くして手に入れようとしているものを、横から少し汚してやればよいのである。


 私は病人である。病人には、女の部屋を訪ねる口実がある。薬のこと、咳のこと、眠れぬ夜のこと。志津は元医者の妻であり、私の話を聞かざるを得なかった。


 志津は私に優しかった。


 ただし、その優しさは兄のそれと違い、温度が低かった。兄の優しさは湯のようで、人を包む。志津の優しさは刃物の背のようで、触れれば冷たく、しかし切れない。切れるのは、こちらが油断して刃の側へ身を寄せた時である。


「倫太郎さんは、死ぬのが怖い?」


 ある午後、志津は私にそう尋ねた。


「怖くありません」


「嘘ね」


「怖いと思うほど、死を信じていません」


「では何を信じているの」


「人の顔です」


「顔?」


「人は言葉では嘘をつく。行いでも嘘をつく。けれど、予期しない時の顔だけは、少し本当です」


 志津は微笑した。


「あなたは嫌な子ね」


「よく言われます」


「誰に」


「兄に」


「篤彦さんは、あなたを可愛がっているわ」


「兄は何でも可愛がります。可愛がることで、相手を自分のものにする」


「あなたは?」


「僕は可愛がりません」


「なぜ」


「手間がかかるから」


 志津は声を立てずに笑った。その笑いは、胸の中で紙を燃やすような音がした。


 私はこの女を壊したいと思った。兄のためではない。私自身の退屈のためである。





 町には、兄に捨てられた者が多かった。


 捨てられたと言っても、兄は誰も捨てていない。兄はただ、少しずつ返事を遅らせ、少しずつ訪問を減らし、少しずつ視線を薄くしただけである。相手は勝手に、自分が捨てられたことを理解した。


 その一人に、お絹という娘がいた。呉服屋の娘で、丸い頬をして、いつも赤い鼻緒の下駄を履いていた。兄は一時、この娘へ熱心に通った。お絹は兄を婿に欲しいとまで言ったらしい。ところが志津が現れると、兄はお絹を忘れた。


 私はお絹へ手紙を書いた。


 篤彦はあなたを忘れていません。ただ今は、家の事情で志津という女に縛られているのです。兄は苦しんでいます。あなたの真心だけが、兄を救うでしょう。


 くだらない文章である。だが、人は自分の欲している嘘には簡単に騙される。


 お絹は家へ来た。雨の日だった。赤い鼻緒が泥で汚れていた。母は困惑し、使用人は逃げ、兄は不在であった。志津が出て来た。


 女二人は座敷で向かい合った。


 私は襖の陰にいた。いつもの場所である。病弱な弟は、どこにいても見逃される。


「篤彦さんにお会いしたいのです」


 お絹の声は震えていた。


「今は留守です」


「あなたが、あの方を惑わせているのでしょう」


 志津は黙っていた。


「未亡人のくせに」


 その言葉は幼く、そして鋭かった。志津の目が少し動いた。私は満足した。予期しない時の顔。それが出た。


 ところが志津は、すぐに表情を戻した。


「お絹さん」


「なぜ私の名を」


「篤彦さんから聞いています」


 これは嘘だと私は思った。しかしお絹は信じた。


「篤彦さんは、あなたを悪く言ったことがありません。可愛い人だとおっしゃっていました」


 お絹の頬が赤くなった。


「では、なぜ」


「男の方は弱いものです。あなたが強くおなりなさい」


 志津はそう言って、お絹の濡れた袖を拭いてやった。その仕草は姉のようであり、母のようであり、同時に勝者のようであった。


 私は襖の陰で、初めて少し不安を覚えた。志津は兄と同じことができる。いや、兄より静かに、兄より残酷にできる。


 お絹は泣きながら帰った。


 夜、兄が戻ると、志津は何も言わなかった。兄も何も聞かなかった。ただ二人で茶を飲んだ。私はそれを見て、腹の底が冷たくなった。


 私の企みは、彼らの遊戯を深めただけであった。





 母の体調が崩れ始めた。


 母は父の死後、急に老いた。そこへ兄と志津のことが重なり、夜眠れなくなった。食も細り、頬がこけた。医師は神経の疲れだと言った。兄は母の枕元で、優しく手を握った。


「母さん、私が悪いのです」


 母は泣いた。


「篤彦、お前は昔から優しい子だったのに」


 私はそれを聞いて、吐き気がした。優しい子。母は本当にそう思っているのか。いや、母はそう思いたいのだ。自分が産んだ長男が、人を弄ぶ奇妙な男であると認めるより、優しすぎて誤解される子であると思うほうが、母には楽なのである。


 兄は母を救うふりをして、母から真実を見る力を奪っていた。


 私は母を救いたいとは思わなかった。母は私を愛したが、その愛は私を病人という役柄に閉じ込めた。私は母の前で健康になることを許されなかった。熱が下がれば母は寂しそうにした。咳が止まれば、どこか不安げにした。母にとって私は、弱く、白く、いつか死ぬ子でなければならなかった。


 だから私は、母が衰えるのを冷静に見ていた。


 だが、兄が母の枕元で善人の顔をするのだけは許しがたかった。


「兄さん」


 ある夜、廊下で兄を呼び止めた。


「母さんを殺す気か」


 兄は足を止めた。


「物騒なことを言うね」


「兄さんの優しさは、毒に似ている」


「薬種屋の息子らしい譬えだ」


「毒は量で薬になる。兄さんは量を誤る」


 兄は暗い廊下で、私を見た。


「倫、お前は母さんを愛しているのか」


「いいや」


「なら、なぜ怒る」


「兄さんが嘘をつくから」


「お前は嘘が嫌いか」


「嫌いじゃない。下手な嘘が嫌いだ」


 兄は近づいてきた。私は少し息苦しくなった。兄の顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。


「僕の嘘は下手か」


「母さんには効く。僕には効かない」


「志津には?」


 私は答えなかった。


 兄はそれで十分だというように笑った。


「倫、お前は志津が好きなのか」


「壊したいだけだ」


「それを好きと言うんだよ」


 兄の言葉は、私の胸に小さな穴をあけた。そこから息が漏れるような気がした。





 志津が妊娠したという噂が流れた。


 誰が流したのかは分からない。町の噂には、いつも父がなく、母が多すぎる。だが噂は、あっという間に家へ入り込んだ。母は半狂乱になった。親戚は怒鳴り込んだ。兄は黙っていた。志津も黙っていた。


 私は志津の顔を見に行った。


 彼女は縁側に坐り、白湯を飲んでいた。庭の芒は、冬を越してまだ立っていた。


「本当ですか」


「何が」


「子のことです」


 志津は私を見た。


「あなたは、本当かどうかを知りたいのではないでしょう」


「では何を」


「本当だった時の、皆の顔が見たい」


 私は笑った。


「あなたは僕をよく知っている」


「あなたは分かりやすいもの」


「兄より?」


「篤彦さんは、自分でも自分を騙す。あなたは自分を騙さない」


「褒めていますか」


「気味が悪いと言っているの」


 私は胸が少し高鳴った。気味が悪い、と正しく言ってくれる者は少ない。可哀想、賢い、静か、繊細。人は私に、薄い紙のような言葉ばかり貼りつけた。志津はそれを剥がした。


「子は、いるのですか」


「さあ」


「自分の体でしょう」


「女の体は、女のものとは限らないわ」


 その言葉の意味を、私はすぐには掴めなかった。志津は庭を見たまま続けた。


「夫が生きていた時、私は子を望まれた。夫が死ぬと、子がいなかったことを責められた。篤彦さんといると、今度は子ができたのではと噂される。私の腹は、いつも他人の物語を書く紙にされる」


 私は初めて、志津を少し哀れに思った。すると、その瞬間に志津が嫌いになった。私は人を哀れむことが苦手である。哀れみは、相手と同じ地面に立つことを要求する。私はいつも、少し高い場所から人の顔を見ていたかった。


「では噂は嘘ですね」


「嘘かもしれないし、本当かもしれない」


「どちらでもいいのですか」


「どちらでも、人は私を許さないでしょう」


 志津はそこで、わずかに笑った。


「許されないなら、どちらでも同じよ」





 兄は変わり始めた。


 人誑しの兄が、人を避けるようになった。客が来ても奥へ引っ込み、母の枕元にも長くいない。志津の家へ行く回数も減った。夜、帳場で一人坐り、父の古い算盤を弾いていた。


 私は、その背中を見るのが楽しかった。


 兄は初めて、自分の網に絡まっていた。人の寂しさを釣り、人の愛を集め、人の同情を食べてきた兄が、それらの糸に首を締められている。お絹は泣き、母は病み、親戚は怒り、志津は沈黙し、町は囁く。すべて兄が招いたものである。


 しかし兄は、まだ美しかった。


 破滅しかけた人間には、妙な光がある。正しい人間の光ではない。聖人の光でもない。燃え尽きる前の油の光である。私はその光に、目を離せなかった。


「倫」


 帳場で兄が言った。


「僕はどうすればいいと思う」


「珍しいね。兄さんが人に聞くなんて」


「人ではない。お前に聞いている」


「僕は人じゃないの」


「お前は裁判官だ」


「裁判官は病人では務まらない」


「病人だから務まる。死に近い者は、少し公平になる」


 私は笑った。


「僕ほど不公平な人間はいない」


「知っている。だから聞く」


 兄は算盤の玉を弾いた。


「志津を捨てるべきか」


「捨てられると思う?」


「分からない」


「兄さんは、捨てるのがうまいでしょう」


「今回は違う」


「なぜ」


「僕が、捨てられる側かもしれない」


 私は黙った。兄がその言葉を口にしたことに、私は軽い驚きを覚えた。


「怖いの」


「怖い」


 兄は即座に言った。


 その正直さは、私を不快にした。兄はもっと嘘をつくべきであった。最後まで、人を欺く美しい獣であるべきであった。恐怖を認める兄は、ただの人間に見えた。


「じゃあ死ねば」


 私は言った。


 兄は顔を上げた。


「死ねば、誰にも捨てられない。父さんみたいに、皆が勝手に意味をつけてくれる」


 沈黙が落ちた。


 言った後で、私は自分の言葉が兄の中のどこへ刺さったかを見た。予期しない時の顔。兄の顔から、一瞬だけ表情が消えた。


 私は勝ったと思った。


 しかし次の瞬間、兄は笑った。


「倫」


「なに」


「お前は僕を愛しているね」


 私は立ち上がった。咳が出た。長く、深い咳だった。血の味がした。





 母が死んだ。


 父の時と違い、母の死はゆっくり来た。灯火が少しずつ細くなるように、母は痩せ、声を失い、最後には目だけで兄を探した。私のことも見た。しかし母の目は、私を見ながら、私の背後の病を見ていた。母は最後まで、私自身ではなく、私の弱さを愛した。


 兄は母の手を握っていた。


「篤彦」


 母はかすれた声で言った。


「はい」


「倫を、頼みます」


 兄は私を見た。


「はい」


 母は安心したように息を吐いた。そして死んだ。


 私はその時、母より兄を見ていた。兄は泣かなかった。泣くべき時に泣く余裕もなかったのだろう。母の死は、兄の舞台を奪った。観客は少なく、拍手もなかった。ただ夜の部屋で、痩せた女が一人、息を止めただけである。


 葬儀は簡素に済んだ。


 親戚は、兄を責める言葉を胸に隠したまま焼香した。志津は来なかった。お絹も来なかった。父の葬儀であれほど賑わった家は、母の葬儀ではしんとしていた。家というものは、主を二人失うと、急に建物になる。


 夜、兄は母の部屋にいた。


「兄さん」


「うん」


「母さんは、兄さんを許して死んだね」


「そうかな」


「許された気がする?」


「しない」


「なぜ」


「母さんは、何も知らなかったから」


 兄は母の枕を見つめていた。


「知らない者に許されても、何にもならない」


 その言葉は、兄にしては正しかった。正しすぎて、私は嫌になった。


 志津が家へ来たのは、母の四十九日も済まぬ頃であった。


 彼女は黒い着物ではなく、薄鼠色の着物を着ていた。喪が少し薄まった色。あるいは、喪そのものが古びた色。兄は彼女を座敷へ通した。私は隣の部屋で聞いていた。


「しばらく会えなかったね」


 兄の声は乾いていた。


「ええ」


「子は」


「いません」


 短い沈黙。


「そうか」


「安心した?」


「分からない」


「私は安心したわ」


 兄は何も言わなかった。


「篤彦さん、もう終わりにしましょう」


 私は襖のこちらで、息を止めた。


「なぜ」


「飽きたから」


 志津の声は静かだった。


「あなたもでしょう」


「僕は」


「あなたは、人に求められている間だけ、その人を愛せる。私があなたを求めなくなれば、あなたは私を愛せない」


「それは君も同じだ」


「そうね」


 兄は笑った。乾いた笑いであった。


「似た者同士は、幸せになれないのか」


「似た者同士だから、幸せの真似が長く続かなかっただけよ」


 私は志津の勝ちだと思った。彼女は兄に、兄自身を説明してみせた。兄の得意な刃を、兄の喉へ当てたのである。


 その時、私は襖を開けた。


 二人がこちらを見た。


「志津さん」


「何かしら」


「僕を連れて逃げませんか」


 言った瞬間、兄の顔が変わった。志津も、初めて本当に驚いた顔をした。


 私は楽しかった。


「僕は長く生きません。荷物にはなりません。兄さんより、ずっと簡単です」


 兄が立ち上がった。


「倫」


「兄さんは捨てられるのが怖い。僕は捨てられても構わない。だって初めから、誰のものでもないから」


 志津は私を見ていた。その目に、憐れみはなかった。恐怖もなかった。ただ、薄い興味があった。


「本気?」


「本気かどうかは、退屈してから分かります」


 兄が私の腕を掴んだ。強い力だった。病人の骨は細い。私は痛みに顔をしかめたが、声は出さなかった。


「やめろ」


「兄さん、痛い」


 私はわざと弱い声を出した。兄は手を離した。志津がそれを見た。私は勝ったと思った。


 しかし志津は立ち上がり、私の前へ来て、低い声で言った。


「あなたは、篤彦さんより幼い」


 私は頬を打たれたような気がした。


「幼い?」


「ええ。人を壊せば、自分が強くなったと思っている」


「違う」


「違わないわ」


 志津は私の顔を覗き込んだ。


「あなたは病気を楯にして、安全な場所から石を投げているだけ。篤彦さんは火の中へ入る。だから醜くても、まだ人間よ」


 私は咳をした。血が出た。今度は芝居ではなかった。


 志津は兄へ向き直った。


「さようなら」


 兄は何も言わなかった。


 志津は去った。足音は静かで、振り返らなかった。





 その夜から、兄は眠らなくなった。


 帳場に坐り、母の部屋に入り、庭へ出て、また帳場へ戻る。酒を飲むわけでもない。泣くわけでもない。ただ、家の中を歩いた。家は本当に棺桶になっていた。父と母を納め、兄と私をまだ生きたまま閉じ込めている。


 私は高熱を出した。


 志津の言葉が、私の中で膿んだ。幼い。安全な場所から石を投げている。私はそれを否定したかった。しかし否定の言葉が見つからなかった。私は病人であることを憎んでいた。だが、それを捨てたら、私には何が残るのか。


 病弱な体。冷たい観察。人の困った顔を好む性根。


 それだけである。


 兄は私の部屋へ来た。


「熱が高い」


「医者を呼ぶ?」


「呼ばないでほしいのか」


「どちらでも」


 兄は水を飲ませた。手つきは不器用だった。兄は人の心を扱うのは巧いが、病人の体を扱うのは下手である。私は少しむせた。


「兄さん」


「何」


「僕は幼いかな」


 兄は黙っていた。


「答えて」


「幼い」


 私は目を閉じた。


「兄さんも?」


「僕は、老いている」


「二十一で」


「人に好かれようとしすぎた者は、早く老いる」


 兄は私の額の手拭いを替えた。


「倫、お前は僕を死ねと言ったね」


「うん」


「あれは、まだ有効か」


 私は目を開けた。兄の顔は静かだった。あまりに静かで、私は少し怖くなった。


「兄さんは死なない」


「なぜ」


「人に見られない死に方は、兄さんに似合わない」


 兄は笑った。


「よく分かっている」


 その笑いを見て、私は安心した。兄はまだ兄であった。狂った人たらしで、善人の仮面を持ち、どんな破滅にも少し舞台を求める、私の兄であった。


 兄は家を売ることにした。


 今度は誰も止めなかった。母は死に、親戚は呆れ、使用人は次の奉公先を探していた。薬種問屋の看板は外され、蔵の薬草は同業者へ安く売られた。父の帳面も、母の箪笥も、私の古い教科書も、値段をつけられて他人の手へ渡った。


 人の暮らしは、驚くほど簡単に物になる。


 兄は売却の手続きを見事に進めた。相手はまた兄を信じた。あんなに噂のある男なのに、実際に会うと、皆が気を許す。兄は衰えてもなお、人をたらす力を失っていなかった。


「東京へ行こう」


 兄が言った。


「僕の体で?」


「東京には病人が多い。目立たない」


「兄さんは何をするの」


「何でもする」


「何でもできる人は、たいてい何にもできない」


「知っている」


 兄は妙に晴れやかな顔をしていた。


「それでも、ここにいるよりましだ」


 私は町を出ることに反対しなかった。志津も、お絹も、母の墓も、父の帳場も、この町には見るものが多すぎた。私は新しい場所で、新しい顔を見たかった。


 出発の日、兄は最後に志津の家へ行った。


 私は駅で待っていた。兄は発車の少し前に戻った。手ぶらであった。


「会えた?」


「会えた」


「何を言ったの」


「ありがとう、と」


「志津さんは」


「笑った」


「それだけ?」


「それだけ」


 列車が来た。煙が空へ汚く伸びた。私はその煙を美しいと思った。美しいものは、たいてい汚れている。





 東京は、私に優しくなかった。


 空気は悪く、人は多く、部屋は狭かった。兄と私は本郷の裏通りに下宿した。兄は新聞社の雑用係になり、しばらくしてから翻訳の真似事を始めた。外国語はろくに読めないくせに、辞書を引きながら、もっともらしい文章を書いた。それが意外にも受けた。


 兄は東京でも好かれた。


 編集者に好かれ、女給に好かれ、貧乏学生に好かれ、質屋の親父にまで好かれた。地方の薬種屋の息子であった兄は、東京で少し文学者のような顔をするようになった。実際、兄の書く短い随筆は評判になった。人の哀しみを、実に巧みに書くのである。自分では一滴も信じていない哀しみを、読者が自分のものと思えるように書く。


 私は下宿で寝ていた。


 医者は、転地が悪かったと言った。肺はさらに悪くなり、夜ごと熱が出た。私は畳の上で、隣室の学生が暗唱する独逸語を聞き、通りを行く下駄の音を数えた。兄は帰ると、その日会った人間の話をした。


「今日の編集長は面白かった。威張っているが、家では娘に嫌われている顔だ」


「女給は?」


「一人、泣かせた」


「また?」


「泣きたい人間に、泣く場所を与えただけだ」


「便利な言葉だね」


 兄は笑った。


 東京へ来ても、私たちは変わらなかった。ただ舞台が変わっただけである。


 ある日、兄は一冊の雑誌を持って帰った。そこに兄の随筆が載っていた。題は「病める弟」。私は読んだ。


 そこには、薄幸で、清らかで、死を静かに待つ弟がいた。兄を慕い、母を恋しがり、夜ごと神に祈る弟がいた。


 私は雑誌を閉じた。


「兄さん」


「うん」


「これは誰」


「お前だ」


「違う」


「読者は本当のお前を要らない」


「兄さんも?」


「僕は本当のお前を知っている」


「知っていて、嘘を書く」


「嘘のほうが、皆を救うことがある」


 私は笑った。咳き込みながら笑った。


「兄さんは、ついに僕まで人たらしの道具にしたんだね」


「怒ったか」


「いいや」


 私は本当に怒っていなかった。むしろ感心した。兄は人の寂しさだけでなく、私の病まで商品にした。父の薬草より、母の由緒より、私の血痰のほうが東京では高く売れるらしい。


「続ければいい」


「いいのか」


「ただし、もっと美しく書いて」


 兄は私を見た。


「お前は本当に、性根が死なない」


「兄さんがそう言った」





 兄の名は少しずつ売れた。


 篤彦ではなく、篤山という筆名であった。篤山の文章は、清潔な不幸を好む読者に受けた。貧しさ、病、家族、故郷、死。兄はそれらを、手袋をはめた手で丁寧に撫でた。撫でられた不幸は、紙の上で上品になった。


 私は兄の材料であった。


 兄は私の咳を聞き、熱を測り、私の言葉を盗んだ。私はそれを許した。ときには、わざと使えそうなことを言った。


「人は死ぬ時、自分の人生ではなく、他人の顔を思い出すのかもしれない」


 兄はすぐ手帳を出した。


「今の、もう一度言って」


「金をくれる?」


「薬を買う」


「なら安いね」


 兄は笑い、私は言葉を売った。


 不思議な共同生活であった。兄は私を美化し、私は兄の美化を監督した。兄があまりに私を清らかに書くと、私は文句を言った。


「ここは嘘が薄い。もっと厚く塗らないと、本当に見えない」


 兄は真面目に頷いた。


 私たちは互いを軽蔑し、互いを必要としていた。兄は私の病を、私は兄の筆を。兄の文章の中で、私は少しずつ死へ近づいた。現実の私は、なかなか死ななかった。





 志津から手紙が来た。


 東京へ移って二年目の秋である。封筒の字は細く、乱れがなかった。兄はその手紙を、しばらく開けずに眺めていた。


「読まないの」


「読んでほしいか」


「兄さんの顔が見たい」


「悪趣味だ」


「今さら」


 兄は封を切った。読み終えるまで、顔は変わらなかった。読み終えてからも変わらなかった。だから私は、手紙の内容が重いことを知った。


「何て」


「結婚するそうだ」


「誰と」


「県会議員の男」


「志津さんらしくない」


「志津らしいよ」


 兄は手紙を私へ渡した。


 そこには、簡潔な報告だけがあった。結婚すること。町を離れること。あなたの随筆を読んだこと。病める弟君によろしく。


 最後の一行を読んで、私は笑った。


「病める弟君だって」


「君づけされている」


「志津さんは知っているんだね」


「何を」


「兄さんが僕を売っていること」


「売っているとは書いていない」


「書かないところが志津さんだ」


 兄は手紙を火鉢へ投げた。紙はすぐ燃えず、黒く縮れ、青い火を少し出してから灰になった。


「兄さん、まだ好き?」


「分からない」


「便利な答えだ」


「本当に分からない」


 兄は窓を開けた。秋の冷たい空気が入った。私は咳をした。


「志津は、僕を壊さなかった」


「そうかな」


「壊れるところまで行かなかった。僕は逃げた」


「兄さんは逃げ足が速い」


「お前は逃げないのか」


「この体で?」


「体のことではない」


 私は答えなかった。逃げる場所など、私にはなかった。病からも、兄からも、自分からも。





 兄が酒を飲み始めた。


 それは破滅のためではなく、社交のためであった。酒席で兄はますます魅力的になった。酔うと少し弱みを見せる。弱みを見せる者は好かれる。ただし兄の弱みは、見せるために整えられた弱みであった。乱れた髪も、震える声も、ふとした沈黙も、すべて計算されているように見えた。


 しかし、計算と本心の境は次第に曖昧になった。


 兄は夜更けに帰り、私の布団の横へ倒れることがあった。


「倫、僕は空っぽだ」


「知っている」


「皆、僕の中に何かあると思っている」


「あるよ」


「何が」


「相手が欲しがっているもの」


 兄は笑った後、泣いた。初めて見る泣き方であった。泣くべき時の涙ではない。誰にも見せるつもりのない涙。それでも私に見せている以上、完全に本物とは言えない。私はその涙を観察した。


「倫、お前は僕が死んだら泣くか」


「泣かない」


「薄情だね」


「泣いたら兄さんが喜ぶから」


「死んでいるのに?」


「兄さんは死んでも、人の反応を気にしそうだ」


 兄はまた笑った。


「その通りだ」


 私は兄の髪に白いものを見つけた。まだ二十代半ばである。それなのに兄は、ほんとうに老い始めていた。人に好かれることは、体力を食う。人の欲望を映し続ける鏡は、早く曇る。





 私の病状は悪化した。


 冬の初め、私は大量に喀血した。洗面器が赤くなった。下宿の女将が悲鳴を上げ、医者が呼ばれた。医者は私の胸を聴き、兄を廊下へ呼んだ。声は聞こえなかったが、兄の顔で内容は分かった。


 長くない。


 私はその言葉を、何度も聞いてきた。十三の時も、十七の時も、東京へ来た時も。長くないと言われ続けて、私は長く生きた。だから今度も信じなかった。ただ、体は正直であった。息をするたび、胸の中で古い紙が破れるような音がした。


 兄は私の看病を始めた。


 仕事を減らし、酒席を断り、薬を煎じ、夜中に私の咳で起きた。私は兄に言った。


「美談にするつもり?」


「何を」


「病める弟を看取る兄」


「書かない」


「嘘だ」


「本当に書かない」


「なぜ」


 兄はしばらく考えた。


「お前が死んだら、書けない気がする」


「兄さんらしくない」


「僕もそう思う」


 私は兄を見た。兄の顔は痩せ、目の下に影があった。人たらしの美しい皮膚は剥がれ、その下から、疲れた男が出てきていた。


「兄さん」


「何」


「僕が死んだら、泣いてもいいよ」


「許可制か」


「ただし、一人で泣いて」


「なぜ」


「人に見せると、兄さんは嘘を混ぜるから」


 兄は黙って頷いた。





 死は、思ったより退屈に近づいて来た。


 劇的なことは何も起こらない。天啓もない。悔悟もない。ただ、朝起きるのが少しずつ難しくなり、水を飲むのにも力が要り、窓の外の空が遠くなる。私は自分の中の残酷さが、病と一緒に薄まるのを感じた。それは善人になることではなかった。ただ、悪意にも体力が必要だったのである。


 兄は毎晩、私の横で本を読んだ。


 ある夜、私は兄に頼んだ。


「志津さんに手紙を書いて」


「何と」


「病める弟君が死にそうです、と」


「悪趣味だ」


「最後くらい、僕にも舞台を」


 兄は筆を取った。しかし書かなかった。


「やめよう」


「なぜ」


「志津を呼んでも、お前は救われない」


「救われたいわけじゃない」


「知っている」


「じゃあ何」


「僕が見たくない」


 兄は正直であった。私は笑った。兄が自分の都合を隠さず言うようになるとは、東京へ来た甲斐があったというものだ。


「兄さん、変わったね」


「醜くなった」


「人間らしくなった」


「お前に言われると、悪口に聞こえる」


「悪口だよ」


 二人で少し笑った。笑うと私は咳き込み、兄は慌てて背を支えた。その手は、昔より温かかった。





 私は死ななかった。


 春になって、少し持ち直した。医者は不思議がり、兄は呆れ、私は退屈した。死ぬ死ぬと言いながら死なない病人ほど、周囲に迷惑なものはない。私もそう思った。


 兄は再び書き始めた。しかし以前とは文が違った。清潔な不幸ではなく、汚れた生がそこにあった。人に好かれようとして空っぽになった男。病を楯にして人を傷つける弟。死んだ母。逃げた女。売られた家。そういうものを、兄は飾らずに書こうとした。


 当然、評判は悪かった。


 編集者は困った顔をした。読者は離れた。兄を褒めていた者たちは、急に難しい顔をした。篤山先生は近頃荒れている。昔のしみじみした味がなくなった。もっと美しいものを書いてほしい。


 兄は笑った。


「倫、僕は下手になったらしい」


「正直になっただけだ」


「正直な文章は売れない」


「嘘も下手になった」


「致命的だ」


 兄は本当に困っていた。しかしどこか楽しそうでもあった。人に好かれることを生業にしてきた兄が、初めて人に嫌われる練習をしていた。


 私はその姿を、少し羨ましいと思った。


 ある梅雨の夜、兄は帰らなかった。


 朝になっても帰らない。昼になっても帰らない。私は下宿の女将に頼んで、新聞社へ使いを出した。兄は前夜、酒席の後で一人帰ったという。


 夕方、警察から知らせがあった。


 兄は川で見つかった。


 死んではいなかった。橋の欄干にもたれて倒れていたという。酒に酔い、雨に濡れ、高熱を出していた。私は人力車で病院へ行った。今度は私が見舞う番であった。


 兄は病室の白い寝台に横たわっていた。顔色は悪く、唇が乾いていた。私より病人らしかった。


「死に損なった?」


 私が言うと、兄は薄く目を開けた。


「違う」


「じゃあ何」


「眠かった」


「橋で?」


「うん」


 私は笑った。


「兄さんらしくない死に方だ」


「だから死ななかった」


 兄は天井を見た。


「倫、僕はもう人に好かれるのが面倒だ」


「遅いね」


「遅い」


「でも、やめられる?」


「分からない」


「またそれだ」


「本当に分からないことばかりになった」


 兄の声は弱かった。私はその弱さを、今度は利用しようと思わなかった。利用するには、私も疲れすぎていた。


 兄は回復したが、以前のようには戻らなかった。


 酒をやめ、社交を減らし、文章もあまり書かなくなった。代わりに、近所の子供へ読み書きを教えた。金にはならない。名にもならない。子供たちは兄に懐いた。兄は子供にまで好かれるのかと、私は少し呆れた。


 だが、その好かれ方は昔と違った。


 兄は子供を操ろうとしなかった。泣く子を泣かせたままにし、怒る子を怒らせたままにした。慰めの言葉を急がなかった。相手が欲しがっている言葉を、以前ならすぐ与えた兄が、今は黙っていることを覚えた。


「兄さん、つまらなくなったね」


「そうか」


「うん。ずいぶん善人みたいだ」


「善人ではない」


「知っている」


「ただ、少し疲れた」


 兄は庭先で子供の書いた字を直していた。下手な字だった。兄はそれを笑わなかった。


 私は縁側で咳をした。春の光が白かった。私はまだ生きていた。病弱という役柄にも、少し飽きていた。だが人間は、飽きたからといって自分を脱げるわけではない。





 志津の訃報が届いた。


 結婚先で病み、亡くなったという。子はなかった。享年三十二。手紙を寄越したのは、彼女の夫であった。生前、篤彦様には一度知らせてほしいと申しておりました、と事務的に書かれていた。


 兄は手紙を読んで、長く黙っていた。


「行くの」


「葬儀はもう済んでいる」


「墓参りは」


「行かない」


「なぜ」


「志津は、僕が墓の前でどんな顔をするかまで、見透かしていそうだ」


「死んでいるのに」


「死んだ者は強い。反論しないから」


 私は笑った。


「兄さんはまだ志津さんに負けている」


「そうだね」


 兄は素直に認めた。


 その夜、兄は一人で泣いた。隣の部屋だったから、私には聞こえた。しかし私は見に行かなかった。私との約束を守ったのか、偶然かは分からない。兄は人に見せない涙を流していた。


 私は布団の中で、それを聞きながら、志津の最後の顔を想像した。彼女は何を思って死んだのか。兄のことか。夫のことか。子のない腹のことか。それとも、私たちのことなど忘れて、ただ天井の木目を見ていたのか。


 分からない。


 私にも、分からないことが増えていた。





 歳月は、人を罰するほど厳密ではない。


 悪人が早く死ぬわけでもなく、善人が必ず報われるわけでもない。兄は狂った人たらしのまま少し静かになり、私は病弱なサイコパスのまま少し鈍くなった。それを成長と呼ぶ者もあるだろう。堕落と呼ぶ者もあるだろう。私はどちらでもよい。


 兄は三十を過ぎて、また文章を書くようになった。


 今度の文章は売れなかったが、少数の読者には届いた。そこには美しい病人も、清らかな母も、悲劇の恋人もいなかった。ただ、どうしようもなく人に好かれたい男と、どうしようもなく人を試したい弟がいた。二人は互いに傷つけ合い、互いを鏡にし、互いを軽蔑しながら、なぜか一緒に暮らしている。


 私はそれを読んで、兄に言った。


「少し本当になったね」


「全部ではない」


「全部本当の文章なんて、気持ちが悪い」


「お前が言うと説得力がある」


 兄は笑った。


 私はまだ咳をしていた。医者は相変わらず、長くないと言った。私は相変わらず、長くない人生を長く生きていた。





 最後に、兄のことを書いておく。


 兄は善人ではなかった。悪人とも少し違う。兄は人の心に入る戸口を、生まれつき知っていた。寂しさ、虚栄、同情、恋、罪悪感。どの戸口も、兄には鍵がかかっていなかった。兄はそこから入り、花を置き、火をつけ、また出てきた。


 弟の私は、兄より清くなかった。私は人を愛するより先に観察し、助けるより先に試し、悲鳴より表情に興味を持った。病は私を弱くしたが、優しくはしなかった。弱さと優しさを取り違える者が多いから、私は生きやすかった。


 私たちは、似ていた。


 兄は人に近づきすぎて壊し、私は遠くから石を投げて壊した。兄は愛のふりで支配し、私は無関心のふりで支配した。兄は熱であり、私は冷気であった。どちらも、人を長く触れさせるものではない。


 それでも、兄は私の水を替えた。私は兄の嘘を直した。兄は私の血を拭いた。私は兄の涙を見ないでおいた。


 それを愛と呼ぶなら、愛という言葉はずいぶん不潔で、ずいぶん丈夫なものだと思う。


 今、兄は隣の部屋で筆を走らせている。私は布団の中で、その音を聞いている。夜は深い。胸は苦しい。窓の外では、東京の雨が静かに降っている。


 兄が何を書いているのか、私は知らない。


 たぶん私のことだろう。たぶん自分のことだろう。たぶん、私たちのどちらでもない、読者が好みそうな哀れな兄弟のことだろう。


 それでも構わない。


 嘘は、最後まで嘘であれば、一つの真実に似る。


 兄は人に好かれたかった。私は人を信じなかった。志津は誰にも許されなかった。母は知らぬまま死に、父は算盤の玉を握って死んだ。町は忘れ、東京は覚えず、紙だけが少し残る。


 もしこの話を読む者があるなら、どうか私たちを憐れまないでほしい。


 憐れみは、こちらを見下ろす者の贅沢である。


 私たちは贅沢品ではない。


 ただ、互いの病であった。


 そして病というものは、治らぬ時にかぎって、患者の名をよく覚えている。

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