第1話「灰色の朝に、赤い夢を見た」
春の朝は、いつもどこか嘘くさい。
桜井凛は窓から外を眺めながら、そんなことを考えていた。
桜がふわふわと舞って、空は水色で、街は穏やかに目を覚ます。世界がまるで「幸せですよ」と言っているみたいな、そういう朝。
でも、凛にはわかっていた。
世界は本当は、こんなに優しくない。
「……また、あの夢を見た」
小さくつぶやいて、凛は左手を見つめた。
白くて細い、なんの変哲もない手。
でも、この手が、かつて——
やめた。
思い出さなくていいことがある。
凛には、前世の記憶がある。
正確に言えば、記憶というより「刻印」に近い。
消えることのない、消したくても消えない、焼き付いたような過去の残像。
前世の凛は、「滅びの魔女」と呼ばれていた。
大陸の東側を一夜にして焼き尽くし、百の街を塵に変え、千の命を——
「凛ー! 朝ごはんできたよー!」
お母さんの声で、思考が断ち切られた。
凛は小さく息をついて、布団から出る。
今世では、ただの女子高生だ。それだけでいい。
鏡の中の自分と目が合う。
切りそろえた黒髪、薄い唇、少し眠そうな目。
クラスメイトからは「感情がない」とか「怖い」とか言われる顔。
自分ではよくわからないけど、たぶん前世の癖が抜けていないのだと思う。
呪いや殺気にさらされながら生きていた人間の顔は、そう簡単には柔らかくなれない。
洗面所で顔を洗って、制服に着替えて、お母さんの作ったトーストを食べる。
こういう、ありふれた朝が好きだった。
前世では絶対に、ありえなかった朝だから。
「今日も部活?」
「ううん、帰ってくる」
「そう。気をつけてね」
短いやりとり。
お母さんはいつも忙しくて、あまり話しかけてこない。
でもそれがちょうどよかった。
あまり深く関わると、いつか傷つける気がして、怖い。
前世の凛は、近くにいる人を傷つけることしかできなかったから。
学校に着くと、教室はすでにざわめいていた。
凛のクラス——二年A組は、なんというか、賑やかなクラスだった。
スクールカーストの上位グループがいて、中位グループがいて、凛はどこにも属していない。
属そうとしたこともない。
「おはよ、桜井さん」
声をかけてきたのは、隣の席の女の子——三上詩織だった。
明るい茶髪で、いつもにこにこしている、悪くない子。
「おはよう」
「今日の一限、数学だって知ってた? 小テストあるって」
「知ってた」
「え、勉強した?」
「まあ」
詩織は「さすが」と笑った。
凛の成績はいつもトップクラスだ。
前世の記憶のせいで、この世界の勉強は簡単すぎてしまう。
何十年も生きた知識と経験が、今の凛には全部残っているから。
でも、それが羨ましいとは思わない。
あの記憶は全部、「失ったもの」とセットだから。
席につきながら、凛はぼんやりと教室を眺めた。
クラスメイトたちが笑って、話して、ごく当たり前の朝を生きている。
凛はその輪の中にいないけれど、眺めているだけでも、なんとなく温かかった。
——だから。
最初に気づいたのは、その「温かさ」が少しだけ、おかしいと思ったからだった。
前の席の男子——宮下隼人。
サッカー部のエースで、クラスの中心みたいな存在。
いつも大声で笑っている彼が、今日は静かに窓の外を見ていた。
それだけなら、ただの寝不足だと思っただろう。
でも凛には、見えた。
宮下の周囲に、うっすらと——
(……灰色の、霧?)
誰にも見えていない。
詩織も、他のクラスメイトも、先生も気づいていない。
でも確かに、宮下の体を、何かが取り巻いていた。
知っている。
この色を、凛は知っていた。
「腐食の霧」——
前世の世界で、魔物が生命エネルギーを喰う時に出る、呪いの残滓。
(なんで、こんなところに——)
心臓がずきりと痛んだ。
落ち着け、と凛は自分に言い聞かせる。
気のせいかもしれない。
前世の幻影が見えることは、たまにある。
でも——
その時だった。
視界の端に、半透明の画面が現れた。
まるでゲームの演出みたいな、青白く光るウィンドウ。
そこには、こんな文字が浮かんでいた。
────────────────
【警告】
使用者の周囲に「浸食体」を検知。
危険度:中
推奨行動:即時排除
────────────────
凛はしばらく、その文字を見つめた。
それから静かに目を閉じて、開いた。
——また、始まるのか。
「凛さん?」と詩織が覗き込んでくる。
「顔、青いよ?」
「大丈夫」と凛は答えた。「ちょっと、眠いだけ」
嘘だ。
全然、大丈夫じゃない。
今世こそ、普通に生きようと決めていた。
傷つけない、壊さない、ただ静かに、何でもない女の子として——
でも、神様はどうやら、凛に休ませるつもりがないらしい。
「——ねえ、宮下くん」
気づいたら、声が出ていた。
凛の声に、教室がわずかに静まる。
宮下が振り返る。
目の下にうっすらクマがある。
やっぱりだ。
「最近、よく眠れてないでしょ」
宮下は少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「……なんでわかるの」
「わかるから」
凛は立ち上がった。
心の中で、前世の記憶が動き始めるのを感じる。
眠っていた力が、静かにまぶたを開けるみたいに。
(面倒くさい)
本音を言えば、そう思う。
でも、同じくらいに——やっぱり、誰かが苦しんでいるのを見ると、見過ごせない。
それだけは前世も今世も、変わらなかった。
「放課後、少しだけ時間ちょうだい」
それだけ言って、凛は席に座った。
教室がざわめく。
隣で詩織が「え、え?」と混乱している。
凛は窓の外を見ながら、あの青白い文字を心の中で反芻した。
浸食体。
前世の世界の名前で言えば、「影喰い」——生命力をゆっくりと蝕む、低位の呪霊。
ほっておけば、一週間で宮下は廃人になる。
(なんで現代にこんなものが……)
理由はまだわからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
自分には、力がある。
「滅びの魔女」の力が、今もこの体に、ちゃんと宿っている。
凛は静かに息を吸って、覚悟を決めた。
——普通の女子高生は、今日も遠ざかる。
でもまあ、いい。
誰かが笑えるなら、それでいい。
前世の自分には、それはできなかったことだから。




