第58話 テンの左腕
その日の夜は、夢中駅前のビジネスホテルに泊まることになった。
なんだか納得したテンは、飲み屋のカウンターに1万円札を置くと、「テンリーグはヨウ君にやってもらうね。あとよろしく!」と言い、さっさといなくなってしまったのだ。
……左腕って誰だ?
とにかく、なんかめちゃくちゃ疲れた1日だった。さっさとシャワー浴びて寝よう。
そんなことを考えながらホテルにチェックインしていると、フロントから1枚のメモ書きを手渡された。
『明日、10時に夢中競馬場入口前に集合』
「えっと、明日も競馬やってますか?」
ヨウは、メモ書きを読むと、フロントのスタッフに尋ねた。
「明日はお休みですね。場外馬券場もやっていないので競馬場には入れないですね」
ホテルのスタッフが、申し訳なさそうに答えてくれた……。ヨウは、「ありがとう」とスタッフに告げ、部屋に向かうエレベーターに乗った。
部屋でシャワーを浴びてベッドに横なったヨウは、テレビを見ながらボーッと夜を過ごしている。
わさびと出会う前であれば、なんてことのないあたり前の時間なのだが、今日はどうにも物悲しい気分だ。
わさびが現れて、なっちゃんが来て。
愛だ恋だってのはないけど、騒がしくて、温かくて。俺にとっては、かけがえのない時間が過ごせてたんだなぁ。
わさびに連絡したくなる。でも、今はわさびに連絡しないことをテンと約束してしまった。
テンリーグなんて言ってるけど、あの人は、俺をわさびから引き剥がしたかっただけなんじゃないか。
ごめんな、わさび。
俺も、いまは離れないといけないって、そう思うことにしたんだよ。
ヨウは、テレビと部屋の電気を消し、しんみりと眠りについた。
****
翌日、ヨウは夢中競馬場の入口に来ていた。
時間は10時を指定されていたが、なんとなく9時半過ぎには到着し入口周辺をウロウロしていた。
競馬場入口は休業日ということもあり、閑散としている。人影はまばらで、散歩らしきご老人くらいしか見かけない。
さてさて、どうなることやら。
さすがに9時半を過ぎると真夏の暑さがきつくなってくる。ヨウは日陰のベンチに腰掛けて、テンリーグのことをぼんやりと考えていた。
「やっぱり、あんたさ。あたしゃ、こうなると思ったのさ。」
ふと声をかけられて見上げると、昨日、初めて競馬場に来た時に新聞を買った店のおばちゃんがいた。昨日と同じド派手なピンクのフリフリの服を着ている。
「おばちゃんが、テンさんの左腕だったんですか!?」
ヨウは驚いておばちゃんに問いかけた。
「そんなわけないさ。あたしゃ、ただの新聞販売員さ。」
「じゃぁ、左腕って?っていうか、テンさんの話でいいんですよね?」
ヨウが念のため確認する。
「そうさ。あのわがまま社長の話で間違いないさ。こっちは、せっかくのんびりしてたのに、困った人さ。」
「それで、テンさんの左腕っていうのは……?」
「それはうちのダーリンのことさ……。」
ん?ダーリン?
予想外の答えだったので、返事に少し間が空いた。
「……、あ〜、旦那さんのことですね!ご夫婦でテンさんの仕事をしているんですね。」
「あんたは、さっさと仕事を終わらせて、ダーリンを早く返して欲しいもんさ。」
おばちゃんは恨めしそうにヨウに言うと、おもむろに携帯電話をポケットから取り出して電話をかけた。
しばらくすると、カメラ片手に走り寄ってくる初老の男性が現れた。
「や〜〜〜!!君がヨウ君ですね。どうも初めまして。ヨウ君の誕生日は確か1983年の10月10日のてんびん座、静岡県出身。ラッキーカラーは青。
あ、僕は、神谷三平。名字が、かみや(紙屋)だからペーパーと呼ばれているよ。っていうか、自分から言ってるよ。でも、面倒だからペイって呼んでね。あ、こっちのハニーはみゆきちゃん。」
ツッコミどころ満載だ。
ものすごい早口だし、天然パーマだし、何よりも服装がみゆきちゃんと同じ全身ピンク色。
ヨウは、昨日とは違う冷や汗を流した。




