第46話 わさびの決意
「……やっぱり、出ないか」
スマホの画面を見つめたまま、わさびは小さく息を吐いた。
5日経った。ヨウが夢中競馬場に向かってから連絡がつかない。メッセージの既読もつかないし、電話も繋がらない。
不安が喉につっかえて、なかなか飲み込めない。
でも、それを顔に出せない性格のわさびは、今日も元気なふりをしていた。
「まちカフェあおい」の中ではユミが壁紙の色について夏海と話していた。
「これ、白ベースに水色のラインでどうかな? 爽やかで“あおい”って名前にも合うし。」
「お、いいっすね。それ、女子ウケすると思うっすよ。SNS映えとか意識してるっすか?」
「ちょっとだけね。」
楽しそうな会話が耳に届くのに、わさびの心は晴れない。
スマホをポケットに戻しながら、壁の時計に目をやる。針はもうすぐ午後2時を指していた。
いつもならこの時間、ヨウが意味不明なセンスで買ってきたお菓子を差し出してくる。謎の塩味のクッキーとか、なぜかノンアルの梅酒ゼリーとか。
……ヨウ、今どこにいるの?
みんな、本当は気づいてる。
わさびが無理してることを。
でも、あえて何も言わない。
だからこそ、わさびは強くあろうとする。
「……夏海、あれ、明日までにできる?」
ホワイトボードの前で、わさびが声をかける。
奥のテーブルに座ってノートを開いていた夏海が、くるりと振り向いた。
「チラシの原案っすよね?昨日、手直ししたばっかりなんで、明日には見せられるっす。」
「ありがとう、助かる!」
坂本造園に入社したばかりの夏海は、まだ20歳。根がまじめでタフな働き者だ。
「……よし、じゃあ! 今日のタスク、もう一度まとめよう!」
パッと笑顔を作り、ホワイトボードの前に立ったわさびの声に、場の空気が少しだけ引き締まった。
「内装は来週いっぱいで終わらせるとして……それまでに、メニュー試作とチラシの作成、あと……イベントの告知、だね!」
「イベントって、何をやるんですか?」
ユミがノートを覗き込んで尋ねた。
「うーん、屋台とか? わたし、家族連れでも楽しめるワークショップもやりたいんだ。手形アートとか!」
「いいと思うっすけど、子連れのお客さん来てくれますかね?オープンしてから女子高生はいっぱい来てくれてるっすけど。」
夏海が不安を口にする。
「大丈夫だよ、そのためにがんばろう。」
相変わらず、わさびは突っ走る。
「それから、チラシは駅前の全店舗に配ろう。ラジオにも連絡して、当日は取材入れてもらって、あとSNS動画も撮って編集して、あ、夜はライトアップしたいな。電飾レンタルできるところ探しておくね!」
一瞬、場が静まりかえる。
「……あの、わさびさん、それ全部、来週までっすか?」
夏海が慎重に口を挟んだ。
「うん、だってさ、せっかくやるなら、一発で“話題”になりたいじゃない?」
「話題っすけど……えーと、ちょっと予定詰め込みすぎてません?」
「……だよね」
わさびは苦笑いを浮かべたが、すぐに頭を振った。
「でも、やらなきゃ。わたしがやるって決めたから。ヨウがいたら、もっとすごいことしてたと思うし」
誰も、否定はしなかった。
だけど、それぞれが目を伏せるようにして、黙った。
すると、ユミがふわりと口を開いた。
「私は……嬉しいです。」
その声は、とても静かで、でもしっかり芯のある響きだった。
「こんなふうに、新しいことを一緒に考えて……動けるの、初めてなんです。ずっと花屋の仕事を黙々とやってて……自分から何かを始めるなんて、考えたこともなかったから。
だから、わたし、できることならなんでもやります。花だけじゃなくて、雑用でも、裏方でも」
「……なんか、意外っすね」
夏海が少し驚いたように目を丸くする。
「ふふ、意外かな? でも、わたし、毎日が楽しくて仕方ないの。いままでの自分から見たら、まるで夢みたい。」
ユミの声に、誰も言葉を返せなかった。
それは、感謝と敬意に満ちた、まっすぐな気持ちだった。
みんな、わさびが無理してることに気づいてる。
でも、だからこそ、彼女を支えようとしていた。
その日、作業は予定どおり進んだ。
でも、心の中には、どこかそわそわとした“予感”のようなものが残っていた。
****
その日の夜。
「まちカフェあおい」仮店舗の入り口にある小さなソファに、わさびは一人腰をかけていた。
全員が帰った後、静まり返った店内。仮設の天井から吊るした豆電球だけが、やさしく揺れている。
……ここで、ヨウと話してたなぁ。
「なんか、落ち着くね、このソファ」と言って、ヨウが塩味クッキーを差し出してきた。
「こういうの、好きだと思って」なんて言って。
いや、好きじゃないし……。
つまらない話に付き合わされながら、もぐもぐ食べてる時間が……悪くなかった。
「ばか……どこ行ってんのよ……。」
誰に言うでもなく、わさびはつぶやいた。
目の前のテーブルには、明日のタスクを書き込んだ手帳。その上に、ヨウが意味もなく残していった走り書きのメモが置いてある。
“居場所”って、つくるんじゃなくて、できちゃうもんなんだな。
……それでも、つくるって決めたの、ヨウなんだよ。
わさびは手帳を閉じた。
「じゃあ、私がやる。私がつくっておく。……帰ってきたら、ちゃんと“ある”ように。」
その目は、もう涙をこらえていなかった。
でも、悔しさじゃない。さみしさでもない。
そこには、覚悟があった。
明日も、やることは山積みだ。
でも、背負うのは夢じゃない。誰かの想いだ。
がんばるよ。
わさびは、静かに立ち上がった。




