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ビーンワイル  作者: シュルレアリスム


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19/34

お守り

あってはならないことがあった。

というか、してしまった。


店主がにらみをきかせる。


ごめんなさいの言葉もない。


数分前にさかのぼる———


暖簾をくぐると赤子が泣いていた。


母親が何度か外に連れ出して、通りの車を見せたり、もっと遠くの歩道橋からの景色を見せてあやしたりしているのは行列で待っているときから知っていた。


その赤子は前世までの鬱憤を晴らすように、これでもかと手足をバタつかせて、自分がこの世界の主人公であることを疑わない。


店内はしんと静まり返っており、アルバイト店員の配膳する忙しなさだけが空気をかき乱していた。


「一名です」


そう言って空いている席に腰かける。赤子が泣くためか、親子の隣のテーブル席しか座る余地がない。


「バカヤロー!!」


突然怒鳴り声がした。


厨房の奥から肩幅のある店主が鼻息荒く、目は血走っている。

餃子の仕込みをしていたアルバイト店員の手が一瞬だけ止まってまた元の作業に戻った。


驚いた様子の赤子も刹那に泣き止んだものの、それ以上の大声で泣きわめき始める。


客たちは黙々と麺を箸で口に運んでいる。

食べ終えたものから下膳して、金を支払い出ていく。


メニューには本日醤油ラーメンのみ。

と書かれていた。


「ひとつください」


餃子を仕込むアルバイト店員にそう伝える。

伏し目がちなアルバイト店員はなにも答えずに厨房の奥へと消えた。


「バカヤロー!!」


怒鳴り声に気圧される形でアルバイト店員が額に汗を浮かべながら戻ってきた。


手には茶色い麺が握られている。

涙ながらに鍋へ麺を放り込みタイマーをセットしている。


赤子は間断なく泣いている。

いつも子どもを見て思うのだが、よくもまあ疲れないで泣き続けられる。


感心してしまう。


仕事で部下が言う事を聞かないときは腹が立つから、しかもその部下ときたら偉そうに講釈を垂れることもしばしば、そんな折にはミスを論理的に糾弾してあげる。

でもそれを繰り返し続けると、なんだか自分が悪いやつに思えてきて結局諦めてしまう。


部下のミスを修正し、そんな部下の評価を下げすぎないように気を遣う。


だから赤子よ。そのエネルギーはどこから来るのか。


醤油ラーメンがどかっと置かれた。


スープと麺しか入っていない簡素なものだ。

醤油ラーメンなのに、なぜかスープは無色透明だ。


麺に味つけが施されているのか。

思いきり啜ってみる。湯気で顔が濡れる。


味はしなかった。


赤子は絶え間なく泣き叫ぶ。客たちは入れ替わり、金を払い、出ていく。

親は諦めたのかもうあやすことすらしない。


「バカヤロー!」


網を鍋に叩きつけて唇を噛み締める店主がアルバイト店員に詰め寄る。


ふとこの赤子の力の源は、ラーメンにあるのではないかと閃いた。

透明なラーメンが親によって咀嚼され、消化され、吸収される。

それが母親の体内で作り替えられて母乳として乳房を介して赤子に供給されていく。


透明な上澄みが純度を増して、最終的には赤子へと変換されるのだ。


だからこの透明な上澄みを飲み干したい。


立ち上がると、周りの客は少しだけこちらに目を向ける。


アルバイト店員は直立したまま青ざめた様子で餃子をこねている。その隣に立ってみると、包丁やまな板が理路整然と配置されていることが分かった。


厨房を覗くと誰もいない。


「バカヤロー!」


背後で何かが弾ける音がした。

もう赤子は泣いていない。


冷蔵庫が一台だけぽつねんと置いてある。

衝動的に扉に手をかける。


キィ。と頼りない軋みとともに、なかから透明なゼリーがあふれ出てきた。


ゼリーは室温で膨張し、ひとの体を容易く飲み込む。

店内にドロドロと這い回る透明のゼリーは誰もいなくなった店内の色を根こそぎ奪い去っていく。


通りの車も、歩道橋も、ビルや街灯が次々と透明な流体に包まれていく。


ゆったりとした透明に身を浸していると心が空っぽになっていく。

いつの間にか目の前に、万物の透明の中央に黒い影が浮かんでいる。


それは泳いでこちらへやってくる。


赤子の形をしたそれは笑いもせず、もちろん、泣きもしない。泳いでもおらず、自分の方が泳いで近づいていることを知る。


透明な赤子の水晶体を指ですくってみる。ころりと円い大きな球体がてのひらで踊る。


バカヤロー。

ふいに喉から出た言葉は、赤子の水晶体に吸い込まれていく。


透明度の増したそれを窪んだ己の眼窟へと誘う。

次の瞬間なにか取り返しのつかないことをした自覚が芽生えた。


ただしそれがなんなのかは分からない。

謝りたい、でも謝れない。


色のない世界では店主はもういないのだから。

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