カエポロの街並み
浜辺のトランペット吹きが帽子を海に流すとき、暗闇のすみではしゃいでいたヤドカリは奇声をあげて光に返り咲く。
今度の極楽鳥はサーベルタイガーと解体してオードブルにしようか、などと他愛ないセリフを役者じみた態度でマリンスポーツの達人は答える。
海にはいくつもの線が絡み合い、互いにぶつかって混ざる。絵の具をうすくひいたカンバスには荒くれ者の刻印が浮かび上がっている。
戦死者の数はゆうに幾万を超えている。
トビトは河原で拾ったばかりの石を窓からトランペット奏者に向けて投げつける。
潮風にあおられた楕円の小石は予想していたよりもあっさりと下降線を辿り、ついには庭の木々の間隙に落ちた。
庭と海の間には砂利が敷き詰められた舗装前の道が横たわっていて、そこからバス停を挟んで向かいにトランペットを抱えた青年がいる。
「ねえ、ぼくのおやつを知っていない?」
弟がお気に入りのぬいぐるみを尻にしいたまま呟く。
部屋はカーテンで仕切られていて、弟のくぐもった声が天井の照明に砕けて消えた。
おやつは親父が昨晩酒のつまみに使っていたからもうなくなっているに違いなかった。
思い通りにならないと弟は癇癪を起こすので、直接的な回答は控えることにしている。
だからといって放っておいても事態は好転しないからトビトは弟を両手で抱き起こす。
ぬいぐるみは弟の形をたもったままいびつに潰れている。
階段を降りると玄関のドアが開いていて、そこから白っぽい光が雪崩込んでいた。
カーディガンを手に取ると、弟にかけてやる。
最近は良くなってきたけれど、風邪を引きやすいたちの弟は常に体を温めておく必要があった。
玄関を出て右手に回ると庭があり、さっき投げた石が植え込みの底に沈んでいた。
庭をつっきって柵に手をかける。
年季の入った木製の柵はいとも容易く道を開いた。
「おやつはどうしたの?」
ここまでくれば弟の問いかけを無視しても大事には至らない。
海までの道中にはたくさんの虫やら鳥やらが羽ばたいているから、じきに弟は大人しくなる。
トビトがこの地域に越してきてからまだ1年も経っていない。けれどいついかなるときであっても生物たちは這い出てくる。
黄色い体表に青いラインが入った虫が目の前を通り過ぎる。
林が道の両脇をかためており、風が吹くと枝がガサガサと揺れる。散った落ち葉は色とりどりで、欲しがる弟のために復路で拾ってあげなくてはと心に決めた。
砂利道に入ると、砂礫を踏む音が昔住んでいた場所を思い出させる。学校の行き帰りにはしばしば通学路を外れて石だらけの空き地で遊んだものだ。
その頃まだ小さかった弟も、なにやら惹かれるところがあるのだろう。ジタバタし始めてついにはトビトの腕から飛び降りた。
痺れた両手は重みを失った代わりに風の通り道を得た。
風とともにトランペットの音符が乗せられてきて、トビトはそれらを手繰り寄せるようにして前へ進む。
弟の気配が隣から薄れていくが、どこか遠くへ行ってしまう心配は不思議と生じなかった。
浜辺にさしかかると、風は勢いを増してトビトの体を強く揺さぶる。
波飛沫が立つ丘の上にひっそりとトランペット吹きが佇んでいる。
こちらからの声はどうせ聞こえないだろうに、なぜか彼の音楽はトビトの鼓膜に届いてしまう。
海原の上空は黒い雲が現れて、まもなく雨が降り注ぐ予感がしている。
洗濯物を干したまま外出してきた。
それがとても悪いことをしたように思えて、トビトは息が苦しくなってくる。
「ラララ」
トランペットの音色は声となり、トビトを責め立てる。
黒い雲は陸まで伸びて五本の指を開いた悪魔のてのひらに見えた。柔らかな陰影は徐々に鋭さを増して、鉄鋼の鈍い光が雨となって海面目がけて降り注ぎだした。
丘と浜辺はそう遠くない。トビトはトランペットの青年がすまし顔で演奏を続けているのが、黒い魔法をかけられたように憎らしい。
突然走り出すと、まずは自分の体ではない気がして驚いた。でもそれは一瞬のことで、トビトは走る体に慣れてしまう。
砂が足の裏で沈むから走りにくい。懸命に走り続けるとようやく丘のふもとが見えてきた。
丘は断崖絶壁に囲まれていて、海がぐるりと周をかたどっている。
どうしても及ばない場所だと悟るとき、トビトはそれを絶望と呼ぶことを知った。
悔しさに拳を血が出るまで握りしめる。
そうすると、手の中でカチッと何か爪とぶつかる感触がした。
「石だ…」
家の窓から投げた石が、楕円の石が確かにそこにある。
「どうするの?」
背後で弟がトビトのシャツの裾を引く。
トビトは生唾を飲む。
海はもう嵐に包まれていて、虫や鳥たちも姿をくらましている。
海中の魚の群れも息を殺しているのが分かる。
彼はもうトランペットを吹いてはいない。
ただ美しい音色だけが雷とともに運ばれてくる。
トビトは目を凝らして耳を澄ます。
もう一度彼がトランペットに指をかけたなら、この石はどんな軌道を描くだろう。次は命中してくれるのだろうか。
雨と汗、血でぬるぬるになった石はトビトの手の中でじっと押し黙っている。
トビトとトランペット奏者の狭間で押し寄せる波は白く濁り暗闇に散っていく。丘の周りを海水がとめどなく浸食する。
石は膨張も収縮もない。静止した時間が石に宿る。
そのときトビトはまた気がついた。
石を投げたのではなく、石にトビトが投げられている。
どうしようもない海原のように、雷雲に満ちた黒い空のように。




