08
静寂は砕け、サイレンが戻った。
けれど胸骨の奥で残響が鳴り止まない。レバーを離すと指先が痺れ、虹の残火が血管を逆流した。
宙はヘッドセットを外し、耳の裏を押さえている。
「──終わった?」
問いは空気に触れる前に、天井灯が一斉にパチンと切れた。
闇。
電源系統が順に落ちるクリック音が、天井裏でドミノみたいに走った。
さっき解除したはずの遮断シークエンスが、別レイヤーで再起動したのだ。
主幹系統B フェイルオーバ
非常灯のパネルが赤文字を点滅させ、即座にまた沈黙する。
「上がるぞ!」
宙の手首を掴み、リフトへ戻る。ケージの昇降レバーを叩くが応答なし。
非常電源も死んだらしい。
縦穴を見上げた瞬間、上層で鉄骨が軋んだ。
低い咆哮。天井フロアがたわみ、粉じんが雪のように降り注ぐ。
——重力が一段深くなる。
床が、沈む。
金属板が海氷のように割れ、僕らを乗せた区画ごとスライドした。
「掴まれ!」
宙を抱き寄せる。浮遊感と同時に、視界が落下方向へ回転した。
鉄骨のレールが折れ、ケージが縦穴を滑り落ちる。その後を追うように僕らのフロアがずれ、斜面になった床で身体が滑る。
足を踏ん張る場所はなく、膝で床を探った瞬間——
崩落。
世界が無声映画になり、コンクリ箱ごと闇へ投げ出された。
重力と静寂が同じ速度で落ちていく。
0・7秒。呼吸が胸に張り付く。
1・4秒。心拍が遅れて耳を叩く。
僕らは闇の中で互いの温度を確かめる暇すらなく、次の瞬間、白い閃光に包まれた。
*
目を開けると、天井がない。
いや、天井全体が乳白色のパネルで発光している。
落下の衝撃は感じなかった。いつの間にか床に立っていて、足裏には硬質な滑走面の感触。
宙がすぐ横で息を荒げ、カメラを抱えたまま震えていた。
背後を振り返ると、崩れた鋼材も粉じんも無い。かわりに、端正な白い廊下が無限遠まで伸びている。
「……白廊下」
写真で見たことがある。母の旧作ドキュメントに映った、未調整フィルムの過露光フレーム。
宙の呟きが残響もなく散る。
足を一歩踏み込むと、床に虚ろな反射が浮かび、僕の影は描けずに沈んだ。
音が消えている。けれど今までの無音域と違い、耳圧も鼓動遅延も無い。
——音という概念自体が最初から存在しない、そんな空間。
ヘッドセットをつけ直した宙が首を振る。
「波形、ゼロ。振幅がどこにもない」
電子も空気も震えないとなれば、ここはすでに“裏層”の一部なのだろう。
移動してきたのではない。崩落をきっかけに、僕らが裏側へ滑り落ちた。
*
廊下を進むと、壁面が緩やかにカーブし、遠近法がねじれる。
距離感が喉の奥で反転し、十歩進むたびに体内の重心が左右に揺れた。
宙は立ち止まり、ファインダーを覗かずにシャッターを切る。
モニタに映った像は、僕らが立つ位置だけ色温度が低く、周囲は真白——境界線が虹のフリンジで縁取られていた。
ここでもフリンジは“鍵穴”を示そうとしている。
廊下の分岐点。
左右に同じ曲率で伸びるが、右側はフリンジが濃く収束している。
宙が無言で右を指す。小さく頷き、肩越しに後方を確認する。
来た道は影絵のように薄れ、白に白が積層していく。戻るルートはもう存在しない。
五十歩ほどで突き当たり。自動ドアらしき線が壁に刻まれ、真中に円形のフレーム。
円の縁に0・7 sおきに淡い光が走り、心拍がシンクロする。
僕は円に手を重ねた。温度はない。それでも脈が掌へ跳ね返り、円が虹に滲む。
——欠落と対峙するゲート。
僕が恐れているのは、無音ではなく、音を失った後に残る“僕自身の空洞”だ。
その空洞が、今、扉として可視化されている。
宙が背後から僕の腕を掴む。
「透だけじゃ、開かない。二人で、結び目」
彼女の掌は冷え切っているのに、脈だけが熱を持っていた。
僕は深呼吸し、二人で円の左右を同時に押す。
光が弾け、虹輪が閉じて白に溶け――
扉は、開かなかった。
代わりに床下から何かが立ち上がる。
薄膜のスクリーンが空中に展開し、粒子が集まって映像を形づくる。
そこに浮かんだのは、氷港ドームの俯瞰図。赤い点がうねりながら、上層へ、さらに南洋へと移動する軌跡を描く。
裏層そのものが“移送”を始めた証拠だ。
宙がスクリーンへ手を伸ばす。指先が触れると、軌跡の終点が赤く点滅し、座標コードが流れた。
南緯二十八度、東経百三十五度——桟橋で撮った数値と同じ。
僕は息を呑む。
「無音は、動きながら大きくなっている。目的地は……島だ」
彼女の声が震え、それでも瞳は諦めを知らない。
スクリーンはゆっくりとフェードアウトし、扉の円が再び脈動を始める。
さっきよりリズムが早い。0・68、0・65……鼓動が巻き取られていく。
このままでは音が完全に捕食される。
開けるしかない。
僕は宙と視線を合わせる。
言葉はいらない。二人の脈拍を重ね、もう一度円に手を置く。
虹輪が閃き、白廊下が震えた。
世界が裏返る手前で、遠くのサイレンがかすかに聞こえた気がした。
それは恐らく幻聴——けれど、まだ音は死んでいない。
——扉が、光の無音を孕んで開いた。