07
古い鋼扉が閉じた後、横坑は鉱石の呼吸音を潜めた。
ランプの光量は最低限——闇が映した僕の影は、負債の桁をひとつ増やしたみたいに長い。
宙はカメラを胸に押さえ、ヘッドセットの波形に耳を澄ます。赤いバーは 0dB より下、地の底でぎりぎり瞬く。
*
保守端末は壁面に半分埋まり、タッチパネルに走る亀裂が蜘蛛の巣のようだった。
主電源遮断まで残り 19:42 と赤字が点滅。
僕はフリンジ合成図を広げ、宙に角度を示す。
「写真で欠けたリング、ここが 4 桁目だ。──あと二桁を割り出せばコードが完了する」
宙はピント合わせの癖で目を細め、ダクト上のガラス管を見上げる。
黒い脈動が 0.9 秒周期で走り、その滲みが虹に分光した瞬間だけ、数字の影が残る。
——3。
僕は端末へ入力、確認ランプが黄に変わる。
「あと一つ」
呼気が白いノイズに変わり、警告チャイムが奥壁で反射する。
ガラス管の脈動が突如乱れ、0.7→0.6→0.8 と誤差を跳ねた。ラインライトが瞬くたび、コード入力欄がバグのように揺れる。
宙は耳当てを外し、素手でガラスを叩く——虹色の粉が弾け、残像が数字の形に崩れた。
「見えない?」
彼女の声は水底みたいに遠い。
僕はライトを落とし、暗闇でまぶたを閉じた。
——耳鳴りの位相がずれて、心拍が外部クロックを求め始める。
そこで、夢で何度も聴いた 0.7 秒 の断絶が、数列に変わって脳裡を走った。
3、0、3……
「……零」
呟きは自分のものか判然としない。
指が動き、最後の桁 0 を押す。
端末が短くビープし、ロックアイコンが緑に転じる。
同時にガラス管の脈が静まり、虹が一瞬だけ完全なリングを結んだ。
*
「やった……」
安堵の声が喉の奥で砕ける。
しかしモニタは別のタイマーを起動した。
連続停電テスト:予備動作開始(T–600 秒)
脚が冷える。連続停電=段階的ブラックアウト。上層を含め全ブロックを巡回遮断し、無音域が追従すればドームは回復不能の断線に陥る。
宙はヘッドセットを戻し、コード解除ログをケースへプッシュする。
受信確認の OK が来た瞬間、回廊のスピーカーがノイズに噛まれた。
『——停電テスト前倒し、全員——緊急退避シークエンス——』
合成音声が千切れ千切れ。
僕は宙の肩を叩き、端末ラック裏の保守リフトを指差す。
「コードは通った。次は配電ノードを物理解除、そこへ行く」
宙は頷き、カメラをリストストラップで固定。
リフトケージに飛び乗る。歯車が噛む音が鳴り、湿った鉄骨が下方へ滑り出す。
上から断続的に照明が落ち、闇が追う。——停電シーケンスが始まった。
ヘッドセットは –∞ dB を示し、鼓動がむき出しのクリック音を立てる。
*
終点。
ケージを蹴り出ると、そこは静電気で髪が逆立つほど乾いたホールだった。
壁一面に主幹ブレーカ列、その中央に “KNOT CORE” と型押しされた金属箱。
無音の呼気が箱周囲を渦巻き、0.7 秒で伸縮する。
「宙、逆位相をぶつける。俺が遮断レバーを引くタイミングでシャッターを切れ——」
指示を終える前に、フロア全灯が落ち、完全な黒。
無音が全身を殻に閉じ込め、皮膚感覚が雪崩のように遠のく。
——ゼロ視界。心音だけが残り、でもそれも 0.7 秒遅延で胸を打つ。
カシャ。
宙のシャッター音が闇を裂くフォトフラッシュになり、金属箱が一瞬白炎で照らされる。
僕はその残光の中でレバーを探り当て、全力で引いた。
空気が弦を跳ねる音がしない。
代わりに胸腔が内側から爆ぜ、逆位相と心拍が同相0点で衝突した衝撃が喉まで昇る。
フロア灯が再点火し、無音域がガラス片のように散っていくのが 見えた。
虹色フリンジが点滅しながら昇り、天井ダクトへ吸い込まれ——そして消えた。
*
ヘッドセットの波形が帰還し、–20 dB で安定する。
宙は膝に手をつき、大きく息を吸った。
警告サイレンがようやく正常音程で鳴り、遠くのフロアで拍手のようなざわめきが起こる。
僕はレバーを握ったまま震え、指の骨に残った振動を確かめる。
——欠落は、まだそこにある。けれど今、武器として動いた。
「透」
宙が息を整え、カメラを掲げる。
背面モニタには発光直前の“KNOT CORE”と、僕の手首に絡む虹の残響。
傷跡のようで、証明書のよう。
僕は笑うしかなく——霜を噛んだ歯がかちりと鳴った。
「さあ、帰ろう」
タイマーは静かに 00:00 で止まっていた。