表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/26

06

 暗室の赤いセーフライトが、心拍を数えるメトロノームみたいに滲んでいた。

 ラウンジから駆け戻った僕と宙は、息を凍らせたまま印画紙を薬液へ沈める。

 定着液の匂いは潮気と混ざり、ドーム深部の湿りを胸骨に刻む。——世界が音を手放す前の、最後の呼吸のようだった。


 現像槽の底で、写真が浮かび上がる。

 氷海と月光、その中央に虹色フリンジ。けれど暗室灯のもとでは色彩が剥がれ、代わりに黒の線分が結節していく。

 まるで写真自体が配線図へ転移するように、輪郭が基板の回路図へ重なり始めた。


「……これはドーム配電図?」

 囁きは液面を波立たせた。宙はピンセットを握り、紙端を静かに持ち上げる。

 逆光で透かすと、フリンジのリングは主幹電源ラインと一致し、欠けた部分が地下経路〈リブ〉の分岐を示していた。


 僕は壁際の端末を叩き、技師データベースから配線レイヤーを呼び出す。

 スクリーンに映る回路図を、写真の上から重ね合わせる。

 ——一致。

 虹の欠片が指し示すのは、先程潜った“結び目層”よりさらに深い管理空洞。そしてそこには、部外者アクセス不可能な保守扉マーク。


「フリンジが、鍵穴を教えてるのか」

 思考が声になる。宙は紙を乾燥ラックに掛け、SDカードを端末へ挿す。

 先程のバルブ露光ファイルを重ねると、欠けたリングが補完され、座標が緯度経度だけでなく時間軸も示していることが見えた。

 刻印は〈2300H〉。——今夜二十三時。あと四十分でドーム全域部停電テストが走る時間。

 無音域が伸びるタイミングとも重なる。


 赤いランプが一度だけ瞬く。回線越しの内線。

 受話すると、技師ケースの荒い息が割り込んだ。

『電源バイパスが持たねえ! 無音脈動が主幹に食い込んだ――あと三十分で自動遮断だ!』

 僕は写真を見つめる。——あと四十分。時計が二つの未来を指してずれている。

 「遮断が早まれば、復旧に逆位相が要る。写真で示した座標に、まだ入口が残っているか?」

『知らん、埋めたはずの旧保守坑だ。だが残ってるなら……賭けてみるか?』


 通話が切れ、赤ランプが暗室の闇へ沈む。

 宙はヘッドセットを調整し、僕の手首を掴む。脈を確かめるみたいに。

「行く?」

 問いではなく確認。僕は頷く。

 恐怖より、像が示す欠落を埋める衝動のほうが先に鳴った。


 *


 機材ロッカーで防寒ジャケットと携帯投光器、非常バッテリーを確保。

 宙はカメラのISO感度を限界まで上げ、ヘッドセットの波形モニタを胸ポケットへ差し込む。

 僕はプリンタで配線図とフリンジ合成マップをA3に出力し、折り畳んで内ポケットへ。紙の温度が体温で柔らかくなる。


 ドーム中央階の避難ゲートは半開きで、警報灯が橙色に回転していた。

 係員が退去を誘導する声が反響し、しかしその上に、間欠的な“音の抜け”が走る。

 ——0.7秒ではない。0.9、1.1と伸び縮みし、サイレンをぎこちなく断つ。

 宙は肩を縮め、カメラシャッターで波形を刻む。

 僕は人の流れを逆走し、非常階段へ飛び込む。


「危険です——!」

 背後の声を切り捨て、鉄扉を閉じる。

 階段灯は間引かれ、段差が浅黒い帯のように連なる。

 息が白く、無音波形が天井配管を揺らすたび、埃が雪のように舞う。

 宙の手がジャケットの裾をつかみ、速度を合わせる。

 ——僕は夢の中でも、こんな深い闇を降りた覚えはない。


 地下三十層。

 ここから先は配線図にも影しかない旧坑道エリア。

 コンクリ壁が途切れ、粗い岩盤が剥き出しになった通路を進むと、錆びた昇降リフトの残骸が見えた。

 ケージは崩れ、ケーブルは切れ、吹き込む冷気が底知れない縦穴を示す。

 しかし写真では、この裏手に横坑があったはず。

 ライトを振ると、岩盤にスプレーで描かれた〈△〉マーク。フリンジの座標と重なる三角表示。


「ここだ」

 岩を押すと、圧縮空気の抜ける音がして鋼製パネルが沈む。隙間から白い霧——いや、音の霧が漏れる。

 ヘッドセットがビープを上げ、波形が瞬時に0ラインへ沈む。

 宙は肩で息をしながらカメラを構え、僕は懐炉を握り替える。

 ——熱はまだある。鼓動は、これを必要とする誰かへ届く温度だ。


 横坑の壁には、配線ダクトを模したガラス管が埋め込まれていた。

 中を流れるのは光ではなく、無音の脈動そのもの。0.7秒から1.2秒へ伸び縮みし、黒い脈がガラスを走るたび反射が虹へ分解される。

 僕は思わず見とれ、次いで寒気に襟を立てた。

 音が可視化される時、それは既に音ではない。“欠落”だけが見える姿を持つ。


 トンネル終点に鋼扉。錆で真紅に染まり、中央に回転ハンドル。

 僕が手をかけると、扉全体が低い共鳴を発し、ヘッドセットが警告トーンを上げた。

 宙が一歩下がり、ファインダー越しに僕を捕捉する。

「開ければ、戻る?」

 声が震えた。僕は扉を押さえながら言う。

「戻すために、開ける」

 握力に力を込め、ハンドルを回す。歯車が凍った悲鳴をあげ、ロックボルトが引っ込む。


 扉が五センチ開いた瞬間——

 世界が切れた。

 無音——一秒、二秒、時が渦へ沈む。

 凍てつく空洞の中で、僕は宙の瞳とだけ繋がる。

 光も熱も奪われる刹那、彼女のヘッドセットが赤い波形を点滅させた。

 ——逆位相シグナル、捕捉。


 扉の向こうで、何かが目を覚ます音が——聴こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ