06
暗室の赤いセーフライトが、心拍を数えるメトロノームみたいに滲んでいた。
ラウンジから駆け戻った僕と宙は、息を凍らせたまま印画紙を薬液へ沈める。
定着液の匂いは潮気と混ざり、ドーム深部の湿りを胸骨に刻む。——世界が音を手放す前の、最後の呼吸のようだった。
現像槽の底で、写真が浮かび上がる。
氷海と月光、その中央に虹色フリンジ。けれど暗室灯のもとでは色彩が剥がれ、代わりに黒の線分が結節していく。
まるで写真自体が配線図へ転移するように、輪郭が基板の回路図へ重なり始めた。
「……これはドーム配電図?」
囁きは液面を波立たせた。宙はピンセットを握り、紙端を静かに持ち上げる。
逆光で透かすと、フリンジのリングは主幹電源ラインと一致し、欠けた部分が地下経路〈リブ〉の分岐を示していた。
僕は壁際の端末を叩き、技師データベースから配線レイヤーを呼び出す。
スクリーンに映る回路図を、写真の上から重ね合わせる。
——一致。
虹の欠片が指し示すのは、先程潜った“結び目層”よりさらに深い管理空洞。そしてそこには、部外者アクセス不可能な保守扉マーク。
「フリンジが、鍵穴を教えてるのか」
思考が声になる。宙は紙を乾燥ラックに掛け、SDカードを端末へ挿す。
先程のバルブ露光ファイルを重ねると、欠けたリングが補完され、座標が緯度経度だけでなく時間軸も示していることが見えた。
刻印は〈2300H〉。——今夜二十三時。あと四十分でドーム全域部停電テストが走る時間。
無音域が伸びるタイミングとも重なる。
赤いランプが一度だけ瞬く。回線越しの内線。
受話すると、技師ケースの荒い息が割り込んだ。
『電源バイパスが持たねえ! 無音脈動が主幹に食い込んだ――あと三十分で自動遮断だ!』
僕は写真を見つめる。——あと四十分。時計が二つの未来を指してずれている。
「遮断が早まれば、復旧に逆位相が要る。写真で示した座標に、まだ入口が残っているか?」
『知らん、埋めたはずの旧保守坑だ。だが残ってるなら……賭けてみるか?』
通話が切れ、赤ランプが暗室の闇へ沈む。
宙はヘッドセットを調整し、僕の手首を掴む。脈を確かめるみたいに。
「行く?」
問いではなく確認。僕は頷く。
恐怖より、像が示す欠落を埋める衝動のほうが先に鳴った。
*
機材ロッカーで防寒ジャケットと携帯投光器、非常バッテリーを確保。
宙はカメラのISO感度を限界まで上げ、ヘッドセットの波形モニタを胸ポケットへ差し込む。
僕はプリンタで配線図とフリンジ合成マップをA3に出力し、折り畳んで内ポケットへ。紙の温度が体温で柔らかくなる。
ドーム中央階の避難ゲートは半開きで、警報灯が橙色に回転していた。
係員が退去を誘導する声が反響し、しかしその上に、間欠的な“音の抜け”が走る。
——0.7秒ではない。0.9、1.1と伸び縮みし、サイレンをぎこちなく断つ。
宙は肩を縮め、カメラシャッターで波形を刻む。
僕は人の流れを逆走し、非常階段へ飛び込む。
「危険です——!」
背後の声を切り捨て、鉄扉を閉じる。
階段灯は間引かれ、段差が浅黒い帯のように連なる。
息が白く、無音波形が天井配管を揺らすたび、埃が雪のように舞う。
宙の手がジャケットの裾をつかみ、速度を合わせる。
——僕は夢の中でも、こんな深い闇を降りた覚えはない。
地下三十層。
ここから先は配線図にも影しかない旧坑道エリア。
コンクリ壁が途切れ、粗い岩盤が剥き出しになった通路を進むと、錆びた昇降リフトの残骸が見えた。
ケージは崩れ、ケーブルは切れ、吹き込む冷気が底知れない縦穴を示す。
しかし写真では、この裏手に横坑があったはず。
ライトを振ると、岩盤にスプレーで描かれた〈△〉マーク。フリンジの座標と重なる三角表示。
「ここだ」
岩を押すと、圧縮空気の抜ける音がして鋼製パネルが沈む。隙間から白い霧——いや、音の霧が漏れる。
ヘッドセットがビープを上げ、波形が瞬時に0ラインへ沈む。
宙は肩で息をしながらカメラを構え、僕は懐炉を握り替える。
——熱はまだある。鼓動は、これを必要とする誰かへ届く温度だ。
横坑の壁には、配線ダクトを模したガラス管が埋め込まれていた。
中を流れるのは光ではなく、無音の脈動そのもの。0.7秒から1.2秒へ伸び縮みし、黒い脈がガラスを走るたび反射が虹へ分解される。
僕は思わず見とれ、次いで寒気に襟を立てた。
音が可視化される時、それは既に音ではない。“欠落”だけが見える姿を持つ。
トンネル終点に鋼扉。錆で真紅に染まり、中央に回転ハンドル。
僕が手をかけると、扉全体が低い共鳴を発し、ヘッドセットが警告トーンを上げた。
宙が一歩下がり、ファインダー越しに僕を捕捉する。
「開ければ、戻る?」
声が震えた。僕は扉を押さえながら言う。
「戻すために、開ける」
握力に力を込め、ハンドルを回す。歯車が凍った悲鳴をあげ、ロックボルトが引っ込む。
扉が五センチ開いた瞬間——
世界が切れた。
無音——一秒、二秒、時が渦へ沈む。
凍てつく空洞の中で、僕は宙の瞳とだけ繋がる。
光も熱も奪われる刹那、彼女のヘッドセットが赤い波形を点滅させた。
——逆位相シグナル、捕捉。
扉の向こうで、何かが目を覚ます音が——聴こえなかった。