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05

 夜のドームは、呼気がそのまま結晶になるほど冷えていた。

 光源は月と非常灯だけ。雪片が空中で反射し、わずかな風さえ光を帯びる。

 私はコートの襟を立て、ファインダー越しに世界を測った。——透の足音が背後で止まる。

「寒くないか」

 問いは霜に触れて砕けた。しばらく遅れて、私は首を横に振る。


 桟橋まであと百歩。凍った木板が星光を飲み込み、手摺りの向こうは氷海の闇。

 そこで——虹色のフリンジを撮る。

 母の映画でさえ捕えられなかった色。

 シャッターの半押しで測光表示が揺れる。露出不足。光を足すより、闇を待つほうが正確だ。


 透は数歩先を歩き、凍結防止ランプを踏まないよう注意している。

 彼は私につき添う“保護者”と言われたけれど、たぶん逆。

 ——私は彼を解像したい。

 いつも自分の温度を確かめるように懐炉を撫でる指先。その震えが、私より先に無音を怖がっていた。


 桟橋。

 靴底が氷膜を割り、ぱき、と小さな音を産む。

 次の瞬間、海面が呼吸を止め、0.7秒の反響が夜気を吸い取った。

 !

 私はカメラを構え、レンズを月と海境へ向ける。絞りを開放、ISOを上げる。

 ——無音の中心で虹が点いた。

 月光がひときわ青く、氷面にだけ七色の輪郭が立つ。

 シャッター。ミラーの衝撃が手首を穿つ。冷えと熱が交錯し、心拍がピント位置をずらす。

 二枚、三枚。

 0.7秒が戻り、海が微かな鈴を鳴らした。


「撮れた?」

 透が肩越しに囁き、白い息がファインダーを曇らせる。

「まだ、足りない」

 私は首を振り、モードをバルブへ。三脚はない。息を止め自分を雲台に置き換える。

 露光開始——月光が胸骨を貫き、視界の端で雪が螺旋を描く。

 心臓が打つたび、虹の輪がフレーム外へ伸びていく錯覚。

 露光終わり。息を吐く。視界が暗転し、代わりにシャッターチャージ音が耳の中で弾けた。


 モニタに現れた画像。

 氷の海、月の橋、そして私と透の影が二本、輪の内側に重なり合う。

 フリンジは完全ではない。だが輪の欠片は座標を示す字形へ収束していた。

 私は頬を強張らせないよう努めながら、透へ差し出す。

「……南へ、行く道標」

 彼の瞳孔が像に吸い込まれ、次の瞬間、小さく震える。

 怖いのは私だけじゃない。

 だから次の言葉を探すより先に、私はもう一枚同じ構図を撮る。

 ——今度の影は、輪郭が触れ合わない距離で並んでいた。


 風が強くなり、桟橋下で氷板が軋む。

 私はストラップを締め直し、透の袖を引く。

「暗室、行く」

 帰路を急がなければならない。0.7秒は伸びる。次に来る静寂が月を奪う前に。


 ドームへ戻る途中、透が不意に立ち止まる。

「宙」

 名を呼ばれ、足元の氷が反射した星が揺れた。

「ありがとう。君のレンズがなければ、俺はまだ夢の中で音を探していた」

 言われても理解は半分。でも胸の奥で何かがカチリと噛み合った。

 私はファインダーを透へ向けシャッターを切る——閃光無しで、ただ夜気の温度を焼き付ける。

 液晶に浮かぶ彼の横顔は、さっきの影より少しだけ輪に近づいていた。


 遠くでサイレンが鳴り、無音に押し消される前に途切れる。

 私たちは歩き出す。

 闇が揺れ、シャッター音が脈拍と重なるたび、世界はわずかに色を取り戻す——フリンジの虹ではない、もっと鈍い、けれど確かな夜の色で。

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