04
壁の裂け目を抜けた先は、薄暗い保守回廊だった。
配線束が壁面を這い、赤錆の匂いと微かな潮気が混ざる。足元には水溜りの名残が斑点を成し、ラインライトは途切れがちに明滅する。
宙は僕の手を離さず、カメラを首に戻す。ファインダーに頼らずとも、彼女の視線は闇の座標を正確に捉えているようだった。
回廊の奥で非常灯がぱっと膨らみ、逆光に男の影が現れた。
ツナギ姿の技師——ケース。工具ポーチをぶら下げたまま、片手でタブレットを掲げている。
緑の進入許可ランプが僕たちの足元を照らし、秒単位で点滅を繰り返した。
「よう、地下見物は楽しめたか?」
皮肉半分の声。けれど額には汗が滲み、冗談だけで立っているわけではないのが分かる。
僕は回廊の湿気を息で押し返しながら、問いで返した。
「予定より深い階層で停電が起きた。——そういうシナリオだったのか?」
ケースが肩を竦める。
「予定外だ。無音域が電源系統を巻き込んでる。俺一人じゃ保守層を封鎖できない」
タブレットを回し、画面を指差す。そこには配電ブロックのリアルタイムマップ。赤の遮断区画が増殖し、中央に“結び目層”と表示されたノードが点滅していた。
「この層を閉じるには二つの鍵が要る。——管理者コードと、逆位相シグナル」
管理者コードは分かる。問題は後者だ。
ケースは宙を見て言う。
「そのシグナル、お嬢ちゃんが持ってるらしい」
宙は瞬きを一つ。驚きとも肯定ともつかない沈黙が落ちた。
僕は割って入る。
「彼女は見つける術を持っているが、——使う義務はない」
言いながら自分の声が震えた。地下の静寂がまだ肺に残り、言葉の端を凍らせる。
ケースはため息をつき、タブレットを閉じた。
「義務じゃない。頼みだ。俺の判断だと、無音域がドーム上層にまで伸びるのは時間の問題だ。避難が先だが——“音”が消えてからじゃ、サイレンも届かない」
宙はカメラを両手で押さえ、レンズキャップを指で弾いた。カチ。
「私がシグナル出せば、止まる?」
「理論上は“結び目層”を再結線できる。無音域を凍結し、拡散を防げる」
技師の声は切迫しているが、嘘を混ぜる余裕はなさそうだった。
僕は宙の横顔を盗み見る。
光の乏しい地下で、彼女の瞳は水晶のように澄んでいた。恐れもある、好奇心もある。——そして何より、理解される機会を探している子どもの目だった。
「宙、決めるのは君だ」
言い終えた途端、胸が軽く痛む。保護者面する資格があるのか。僕自身、逆位相の恐怖に抗えたわけではないのに。
宙はゆっくりと首を振る。そして僕の袖をつまみ、囁く。
「……怖い。でも、もっと怖いのは——音が戻らないこと」
覚悟の声明だった。
ケースはうなずき、腰のポーチから小型ヘッドセットを取り出す。
「これでシグナルを拾う。君はシャッターを切るだけでいい」
宙が受け取り、耳に当てる。白いコードがコートの胸元で揺れ、鼓動のテンポと干渉した。
僕は技師の脇をすり抜け、回廊の先へ視線を投げる。
そこには水平に走るサービスドア。銘板は薄れ、代わりに白チョークで〈KNOT〉と書き殴られていた。
手をかざすと、ドアの隙間から冷気が漏れ——同時に0.7秒より短い“息継ぎ”が聴覚を奪う。影が肺に入り込み、吐き出す前に消えた。
「行くぞ」
ケースがハンドライトを構え、僕にキーコードパネルを示す。
数字列。さっき宙が写真から解いたのと同じパターン。指が震えるのを抑え、入力。
電子ロックがカチリと外れ、扉が数センチ自動で開いた。
宙はシャッターを半押しにしたまま、一歩前へ。
彼女の背中をライトが照らし、影が長く伸びる。
ドアの向こうは白霧に包まれ、温度も匂いも奪い去られた世界の断面だった。
「透——」
背中越しの声。こんな静寂でも、彼女は僕の名を正確に切り取ってくる。
僕は返事の代わりに懐炉を渡した。
——熱を忘れないための小さな灯。
彼女は受け取ると、掌で包み、カメラと並べる。手の中の二つのレンズが、今は同じ温度で息づいているのを感じた。
技師が合図を送り、主電源ルートのバイパスが切り替わる。
警告ランプが赤から黄へ、そして緑へ。——時間がない。
宙と僕は、結び目層へ踏み込んだ。
世界が呼吸を止める。
0.7秒。
そして、さらに深い“黙示”が口を開く音が——聴こえなかった。