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03

 階段は二十五段ごとに踊り場があり、非常灯の緑が死角を縫っていた。

 足裏が響くたび、コンクリ壁の中に微かな残響が潜る——それが“音”なのか“無音の外郭”なのか、判別が曖昧になるほど静かだった。


 十七段目で宙が立ち止まり、耳たぶに指を添える。

「逆位相……来る」

 囁きにも届かない声。それでも脈拍の揺れが袖越しに伝わり、僕は息を整える。


 その瞬間、世界が紙片のように折れた。

 ——0.7秒。

 呼吸音が途切れ、血流のざわめきさえ凍り付く。

 視界がわずかに暗転し、鼓動が一拍遅れて胸板を叩く。

 ただし今回は終わりが来なかった。

 0.7秒を過ぎても、静寂は深度を増しながら続行した。


 鼓膜の内側で、何かが膨張した。ひび割れる前の氷を指で押すような圧迫感。

 ——僕は反射的に宙の肩を抱き寄せる。温度の確認。ここがまだ現実だと引き留める錨。

 彼女は抗わず、カメラを胸で固定したまま目を閉じていた。


 どれほど時が経ったのか分からない。

 突如、階段全体が震え、コンクリの奥で金属管が弾ける音——いや、無音の“影”が聴覚を擦る。

 闇がしゅっと縮んで、非常灯が再点灯した。

 周囲の空気が一斉に吸い込まれ、遅れてざあっと風が返って来る。

 静寂は剥がれ落ち、耳鳴りだけが残った。


 宙は肩の中で息を吸い、震えの代わりに短い言葉を吐く。

「……延びた。ゼロ・セブンを越えた」

 僕は腕を離し、視線で問い質す。

「静寂、長くなってる。動きながら成長してる」


 言語化された途端、背筋が冷える。

 この現象は移動するだけでなく、自己増殖する。


 踊り場の端に、配線ダクトの隙間を塞ぐ金属ハッチがあった。停電直前までは施錠されていたはずだが、今はわずかに口を開け、暗い呼気を漏らしている。

 宙は迷わず膝をつき、ハッチの影を覗く。

 そこには幅一メートルほどの昇降ケーブルと、下方へ続くシースルーのメンテナンスリフト。手摺りに警告札——〈KEY: 結び目層〉。


「ここ、行く」

 宙は断定し、カメラをストラップで肩に回す。

「技師の許可なんて要らないのか?」

 問いが滑稽に響くほど、状況は既に規定外だった。

 彼女は小さく笑う。

「音、待ってくれない」


 リフトは手動レバー式。歯車を噛む音が錆びて高く、さっきまでの無音と対照的にやけに鮮明だった。

 僕たちはケージのような籠に身を寄せ、レバーを引く。重い鎖が鉄骨を滑り、下方へゆるやかに落ちる。

 非常灯の光源が遠ざかるたび、闇が層を成して降り積もる。

 ——やがて、闇は底で静かに着地した。


 足元に薄い水膜。青白いラインライトが一本だけ床を走り、水平線のように闇を分割する。

 ラインの中央がわずかに脈打ち、光が0.7秒周期で弱まる。

 その律動に合わせ、僕の心臓がズレを起こす。まるで光が鼓動の指揮を奪うみたいだ。


 宙は床に膝をつき、カメラを構えず目で観察した。

「鼓動、外にある」

 言葉が震え、しかし視線は研ぎ澄まされている。

 僕は耳を澄ませ——いや、耳を“空に”して鼓動を探す。

 ラインライトの脈動は徐々に短く、深くなり、0.7秒の等間隔を崩していく。


 次の瞬間、天地の区別が消えた。

 視覚情報がズームアウトし、僕も宙も床面から浮いたような錯覚に捕らわれる。

 その中心で、確かに“音の無い鼓動”が鳴っていた。——逆位相の心拍。

 僕は反射的にポケットの録音マイクを握る。しかしRecランプは点かず、マイク自体が沈黙に飲まれている。


「透」

 宙が僕を名前で呼んだ。初めて、敬称も肩書きもない呼び方。

「手。——一緒に歩くと、音、帰れる」

 差し出された掌は小さく冷えて、しかし確かに震えている。怖くないと言った少女が、今は僕の欠落を借りようとしている。

 僕はその手を握った。


 掌と掌が触れた瞬間、ラインライトが一段だけ明るくなり、脈動が0.7秒に再同期する。

 砂時計が天地を入れ替えたように、世界が重力を取り戻した。

 浮遊感が収まり、足裏に水膜の冷たさが返ってくる。


「——戻った、のか?」

 問いは自分自身へ。

 宙は首を振り、床照明の先を指差す。淡い光が壁面の割れ目を映し、その奥から微かな白霧が漏れている。

 無音の呼吸孔。ここから奥へ進めという合図のように、フリンジ色の反射が滲んだ。


 僕らは手を繋いだまま一歩踏み出す。

 水膜が割れ、反響が生まれ、すぐに無音が飲み込む。

 歩幅と呼吸が揃い、二つの心拍が0.7秒の外側で重なった。


 ——そして、裂け目の向こうへ。

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