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南半球の海図を北へ折り返すたび、星座は知らない並びへ縫い変わった。
〈ガラスワルツ〉は低緯度を離れ、偏西風の裾を掠めながら、かつて「無音」が産声を上げた北港へ帰航する。
船首灯の下で潮が頬へ跳ね、それが凍り切る前に溶ける温度——
氷港へ近づく証拠だった。
母はブリッジトップに小型ジンバルを据え、オーロラ予報サイトとにらめっこを続けている。
「無音に食われなかった空なら、極光も素直に鳴ってくれるはず」
顎で示す北の空にはまだカーテンの端さえ見えないが、
彼女の録画ディレイタイマーは“00:48:00”をゆっくり刻んでいた。
宙は甲板の手摺りへ両肘を乗せ、北極星を探す。
慣れない星図に眉をひそめ、それでも“ゼロ拍領域”で見た裸星を手がかりに、
雲間の一点を指さした。
「揺れてる……ほんの少しだけ」
ファインダー越しに見る星はかすかに脈動し、0・701から0・699を往復している。
心拍潮汐は海だけでなく星の裏面にも届いていた。
波留が機関室ハッチを肩で押し開け、整調完了のボードを掲げる。
「エンジン可変ピッチ、拍動同期モードに最適化——航路ログがリズムで読めるぜ」
冗談めかした声が北寄りの風に攫われ、
美琴が救護デッキでくすりと笑いながら手を振った。
北港では医療講習の補佐が待っている。
彼女は赤潮光の島で学んだ“拍測”手技を応用し、
寒冷地救急へ拍動ベースの遠隔トリアージを試みるつもりだ。
*
深夜二二時三三分。
北緯三十三度の潮目で、ブリッジのレーダーがほんの一瞬だけノイズを拾った。
0・7020・701。
欠落ではなく、外洋で迷子になった鼓動の残響。
波留がゲインを上げ、僕がマイクをデッキへかざすと、
遠雷めいたクリックが二拍続いて消えた。
「海図に記す?」
宙が問う。僕は首を振った。
「あれは救難信号じゃない。世界のどこかで遅延が生まれた証拠だ。
港へ戻ったら、潮騒ネットワークでフォローしよう」
星の揺れも、海鳴りも、取りこぼさないために。
*
午前三時、船腹を滑る水音が一段硬くなった。
遠くに港灯が三つ並び、氷港の防波堤が月光で鈍く光る。
0・70秒。
帰着の拍が確かに胸で折り返し、
僕はタラップに立って凍り始めた息を吐いた。
宙がリモートシャッターの準備をする。
母がジンバルを肩へ担ぎ、極光録画タイマーを再度スタートさせる。
波留は補機をアイドリングへ落とし、機関室の灯をすべて消した。
美琴は救護バッグの中身を点検し、最後に自分の脈を計る。
港灯が水面に3本の光柱を落とす——そこへ、
北天の薄雲がふわりと裂け、緑のヴェールが滲み出した。
オーロラには早過ぎる緯度。だが確かに揺れている。
星図で見た裸星の微振動が、大気の上澄みまで歩幅を伝えたのか。
宙が息を呑み、母と同時にレックを押す。
波留が録音機のトラックを開き、
美琴が拍動タイムスタンプを読み上げる。
僕は手帳を開き、新しいページへたった一行を書いた。
> 欠落は進行形の鼓動。
0・70秒。
世界はまだ癒えきらず、しかし傷口から滲む光で自分を縫い直す。
タービンの島、赤潮光、白の臍——すべてが遠回りの拍動となって、
港灯の鈍い水面へ帰って来た。
船のスラスターが落ち着き、
タラップが岸壁へ接触するその瞬間、
僕らの胸で拍が一つ揃った。
0・70。
扉は再び開いている。
次に遅延を見つけたら、きっとまた——
音を連れて航路図を描くために。




