22
夜明け二度目の薄明が島を洗った。
桟橋の欄干には前夜の赤潮光が嘘のように消え、代わりにサンゴ片の匂いを運ぶ静かな風が通る。
僕は錆びた係留柱にもたれ、手の中の缶コーヒーを振って残りを確かめた。
缶底で小さく跳ねた液体が、0・70秒おきに鼓動へ重なり、
そのリズムに合わせて潮が岩礁へやわらかく寄せて返す。
「帰る実感、湧かないね」
美琴が隣で伸びをして、寝不足の背骨を鳴らした。
真新しい作業ジャケットの胸元には〈リムプール救護班〉のパッチ。
島に残ることを、彼女は迷わず選んだ。
「北港の冷たい風より、ここで潮騒を測っていたいから」
照れ隠しのように言って、僕の缶へ視線を落とす。
「もう一本、開ける?」
「ああ。……ただし普通の味のやつだといいな」
僕らは笑い合い、自販機へ歩き出す。
*
タービン塔の管理棟ロビーでは、波留が新しい波形ログを壁面モニタへ映していた。
0・703、0・701、0・700──心拍に寄り添うように潮の周期が揺蕩い、
その上に赤潮プランクトン群の発光データが二重螺旋を描く。
「逆位相を返した副産物だな。潮とプランクトンが拍動を記憶したらしい」
彼はプロット線を指でなぞりながら、子どもみたいに目を輝かせる。
「世界初の“心拍潮汐”ですよ。装置を増設して観測網を組めば、海全体の呼吸が見えるかもしれない」
そこへ母――蒼井芽衣が三脚を肩に乗せて現れた。
カメラの電源を落とし、レンズキャップを慎重に締める手つきは、どこか儀式めいて見える。
「私の映画はまだ終わっていないけれど、上映はしばらく先になるわね」
その言葉に波留が眉を上げる。
「試写もしないのか?」
「物語に“続き”が出来たから。編集室より、もう少し潮騒を歩いたほうがいい気がするの」
母は視線を宙へ向ける。
*
宙は管理棟の屋上で、潮風に吹かれながら新しい設定値をカメラに入力していた。
ファームウエアのナンバーは 0.70.0──彼女なりのジョークらしい。
ファインダーを覗くと、赤道の空は薄雲を透かし、夜の間に裏層を往復した星の残像を匂わせる。
「撮りたいもの、見つかった?」
僕が声をかけると、彼女は液晶モニタを開き、
“潮騒リスタート Scene #001”と打たれたテキストファイルを見せた。
「母といっしょに撮る一枚目。タイトルだけ先に書いた」
照れたように笑い、続けてホワイトバランスを微調整する。
「光は温度に寄り添う。今の私は冷えすぎてないから、たぶん色も素直に寄ってくる」
鼻先をかすめる風が、北港で感じた切れ味とは違う質で髪を揺らす。
僕はポケットの懐炉を取り出す。もう熱はほとんど残っていない。
それでも小さな金属の塊を宙の手に渡すと、彼女は受け取り、軽く頷いた。
「ゼロ拍領域では要らなかったけど、これから外の風に当たるときは、ね」
「防寒具兼、お守りだ」
お互いに冗談めかして笑い、屋上のパラペットへ並んで肘をつく。
潮騒がはっきりした拍で着岸し、
管理棟下から美琴の笑い声が波留と混ざって上がる。
母はレールカメラを海に向けてセットし、最初のリハーサルを始めた。
0・70秒。
拍動はもう僕らを束縛しない。
欠落は閉じ込めるものではなく、
次の音を引き寄せるための呼吸溝になった。
潮風が散らした雲の合間に、昼の月がかすかに浮かぶ。
「次のシャッターはいつ切る?」
僕の問いに、宙はファインダー越しに空を測る。
「たぶん、今」
カメラが静かに鳴り、レンズシャッターが潮騒と完璧に重なった。
その一拍は欠落を孕まず、
代わりに“続き”の入口だけを淡く照らした。




