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 夜明け二度目の薄明が島を洗った。

 桟橋の欄干には前夜の赤潮光が嘘のように消え、代わりにサンゴ片の匂いを運ぶ静かな風が通る。

 僕は錆びた係留柱にもたれ、手の中の缶コーヒーを振って残りを確かめた。

 缶底で小さく跳ねた液体が、0・70秒おきに鼓動へ重なり、

 そのリズムに合わせて潮が岩礁へやわらかく寄せて返す。


「帰る実感、湧かないね」

 美琴が隣で伸びをして、寝不足の背骨を鳴らした。

 真新しい作業ジャケットの胸元には〈リムプール救護班〉のパッチ。

 島に残ることを、彼女は迷わず選んだ。

「北港の冷たい風より、ここで潮騒を測っていたいから」

 照れ隠しのように言って、僕の缶へ視線を落とす。

「もう一本、開ける?」

「ああ。……ただし普通の味のやつだといいな」

 僕らは笑い合い、自販機へ歩き出す。


 *


 タービン塔の管理棟ロビーでは、波留が新しい波形ログを壁面モニタへ映していた。

 0・703、0・701、0・700──心拍に寄り添うように潮の周期が揺蕩い、

 その上に赤潮プランクトン群の発光データが二重螺旋を描く。

「逆位相を返した副産物だな。潮とプランクトンが拍動を記憶したらしい」

 彼はプロット線を指でなぞりながら、子どもみたいに目を輝かせる。

「世界初の“心拍潮汐”ですよ。装置を増設して観測網を組めば、海全体の呼吸が見えるかもしれない」


 そこへ母――蒼井芽衣が三脚を肩に乗せて現れた。

 カメラの電源を落とし、レンズキャップを慎重に締める手つきは、どこか儀式めいて見える。

「私の映画はまだ終わっていないけれど、上映はしばらく先になるわね」

 その言葉に波留が眉を上げる。

「試写もしないのか?」

「物語に“続き”が出来たから。編集室より、もう少し潮騒を歩いたほうがいい気がするの」

 母は視線を宙へ向ける。


 *


 宙は管理棟の屋上で、潮風に吹かれながら新しい設定値をカメラに入力していた。

 ファームウエアのナンバーは 0.70.0──彼女なりのジョークらしい。

 ファインダーを覗くと、赤道の空は薄雲を透かし、夜の間に裏層を往復した星の残像を匂わせる。

「撮りたいもの、見つかった?」

 僕が声をかけると、彼女は液晶モニタを開き、

 “潮騒リスタート Scene #001”と打たれたテキストファイルを見せた。

「母といっしょに撮る一枚目。タイトルだけ先に書いた」

 照れたように笑い、続けてホワイトバランスを微調整する。

「光は温度に寄り添う。今の私は冷えすぎてないから、たぶん色も素直に寄ってくる」


 鼻先をかすめる風が、北港で感じた切れ味とは違う質で髪を揺らす。

 僕はポケットの懐炉を取り出す。もう熱はほとんど残っていない。

 それでも小さな金属の塊を宙の手に渡すと、彼女は受け取り、軽く頷いた。

「ゼロ拍領域では要らなかったけど、これから外の風に当たるときは、ね」

 「防寒具兼、お守りだ」

 お互いに冗談めかして笑い、屋上のパラペットへ並んで肘をつく。


 潮騒がはっきりした拍で着岸し、

 管理棟下から美琴の笑い声が波留と混ざって上がる。

 母はレールカメラを海に向けてセットし、最初のリハーサルを始めた。


 0・70秒。

 拍動はもう僕らを束縛しない。

 欠落は閉じ込めるものではなく、

 次の音を引き寄せるための呼吸溝リブになった。


 潮風が散らした雲の合間に、昼の月がかすかに浮かぶ。

「次のシャッターはいつ切る?」

 僕の問いに、宙はファインダー越しに空を測る。

「たぶん、今」

 カメラが静かに鳴り、レンズシャッターが潮騒と完璧に重なった。

 その一拍は欠落を孕まず、

 代わりに“続き”の入口だけを淡く照らした。

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