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 逆転タービンが惰性で揺れ、ついに静かに止まった。

 ブリッジ上の計器は一拍置いてから通常電源へ切り替わり、島全域を包んでいた低い咆哮が潮の満ち引きの奥へ沈んでいく。

「完了——回路、安定域に復帰」

 波留の報告がスピーカー越しに響くと、塔屋の天井灯が順に点り、白熱した真空はただの湿った空気へ後退した。


 僕ら三人はガラス回廊出口の床へ崩れ落ち、呼吸が喉の奥で絡まり合っている。

 0.70 秒の鼓動は過剰な血流と汗をほんの少し残しながらも、確かに“世界の側”へ戻っていた。

 遠くで拍手と歓声が湧き上がり、母のクルーが機材を掲げて無事を知らせているのが見える。


 宙はカメラを膝に置き、レンズを外してイメージセンサを確認した。

「割れてない……生きてる」

 彼女の声は震えたままだが、以前のような冷たい亀裂はなく、

 むしろ真水へ落ちた石の波紋のように柔らかく広がった。


 美琴がぐったりと座り込み、救護バッグから携帯パルスオキシを取り出して僕の指先へ嵌める。

「97%。まだ死なない」

 冗談のつもりだろうが、涙と汗が混じった顔はどう見ても本気で安堵していた。

 僕は笑い返しながら、彼女の額を軽く小突く。

「君こそ脈が早い。――ありがとう、最後まで離さなかった」


 *


 塔屋へ戻ると、母がレールカメラを肩から下ろして待っていた。

 映像モニタは白布の孔が閉じる最後のフレームで止まり、虹糸が一本だけ残像のように揺れている。

「終わったわね」

 短い言葉。けれどレンズの奥の瞳は水面下でかすかに揺れ、光を洛陽のように散らした。


 宙が一歩前へ進み、母と向き合う。

「お母さん……私を“撮る”んじゃなくて、私と撮ってくれる?」

 声は小さく、けれど塔屋の高い天井に吸い込まれることなく響いた。

 母は数秒だけ口を結び、ゆっくりとうなずく。

「あなたの鼓動を借りて、世界が鳴り直すところを残しましょう」

 その答えに、宙の口元がほころび、こわばっていた肩がほどけた。


 波留が制御卓の最終ログをバックアップしながら振り向く。

「タービンは逆回転軸を外したまま固定した。潮が動き出しても無音を吸わず、代わりに“拍”を返すはずだ」

「島がスピーカーになるわけか」

 僕が言うと、彼はウインクで肯定し、テーブルトップへ小型録音機を置いた。

 「潮騒の初発を拾おう。欠落前の“普通の音”より少し温度が高く聞こえるはずだ」


 *


 深夜、リムプールは観光客の足音も放送もなく、空調だけが水面に細波を描いている。

 タービン停止から一時間、潮が戻り始める頃合いだ。

 僕・宙・美琴・母・波留の五人はプール縁に並び、

 防水マイクとカメラを赤潮光の消えた水面へ向けた。


 遠くでブイのベルがほんの一度鳴り、

 次の瞬間、ガラス床の下で海水が小さく息をする。

 ——ピッチ。

 まるで壊れたレコードが再生を再開するような、ささやかなクリック音。

 0・71、0・70、0・69……

 水面に生まれた第一波がガラスへキスをして、

 プールドーム全体が低いハミングを帯びる。


 音は殺されず、しかし生き返ったわけでもない。

 鼓動の上澄みに乗って、新しい温度で振動し始めた。

 母がファインダー越しに僕らを捉え、

 波留が録音機を掲げ、

 宙がリモートシャッターを押す。


 フラッシュは要らない。

 赤潮光の代わりに、潮騒そのものが薄い虹を孕んだ。

 それはゼロ拍領域で見た糸より淡く、けれど確かに世界を縫い直す光。

 僕は耳で、胸で、その再起動を聴いた。


 *


 翌朝四時、島の防災放送は通常電源へ復帰し、

 「潮汐タービン、正常回転確認」のアナウンスが英語と日本語で流れた。

 観光客は眠り、技師たちは交互に仮眠に入る。

 僕らはテラスのベンチで缶コーヒーを分け合い、

 潮風が新しい拍で肺を満たすのを味わっていた。


 母がモニタから目を離し、私たちへ向き直る。

「エンドロールは要らないわ。音が鳴る限り、映画は止まらない」

 宙が照れたように笑い、僕は缶を掲げて乾杯の真似をした。

 美琴がくすりと笑い、波留が肩越しに朝焼けを指差す。


 潮騒が次の波を運ぶ頃、

 欠落はただの記憶になり、

 世界は瞬きのたびに拍を更新する。


 0・70秒——

 新しいスタートラインで、

 僕らはもう一度、

 息を合わせた。

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