02
レモンソーダの泡が弾けるたび、遠ざかるはずの吹雪が耳奥で逆再生した。
宙はカップを両手で包み、氷塊のような瞳で僕を測る。視線が触れ合うと、互いの温度だけがわずかに揺れた。
「さっきの音、測ってたの?」
僕が切り出すと、宙は首を横に一度だけ振る。
「測れないものを——見つけたかった」
言葉は簡潔なのに、余白が深い。カメラのファインダーを覗くように、意味を絞り出しているのだろう。
通路の天井灯が一段暗くなり、ガラス壁面に雪の影がゆらいだ。照度変化のアラートが無言で流れる。ラウンジにいるのは僕らを含めて六人、誰も騒がない。ここでは沈黙こそが通常値らしかった。
宙はSDカードをすっと引き戻し、ファインダー越しに僕をもう一度撮る。
「証拠、二重化」
そう呟いて胸ポケットへ滑らせた。レンズの中で僕は何秒分の空白になったのか、考える前に館内スピーカーが低いチャイムを鳴らす。
「——点検開始まで、あと三時間」
技師ケースの無機質な声。
宙は椅子から立ち、コートの裾を払う。歩幅は小さいが一直線で、僕を振り返らず出口に向かう。
「待て、どこへ?」
「暗室。写真、現像」
短い答えが落ち、また一歩。
僕は懐炉を握り、立ち上がった。少女を追う理由も、追わない理屈も等しく空虚で、踏み出した靴音だけが確かだった。
*
暗室はドーム中央階の管理区画にあった。赤いセーフライトが湿った空気を染める。フィルム乾燥機のファンが低く唸り、ケミカルの匂いが鼻腔に刺さるが——僕は過去の広告現場を思い出し、逆に落ち着いた。
宙は手際よく現像液に印画紙を沈める。ドラム式タイマーを見ず、心拍で時間を数えているようだった。
浮かび上がる像。白地に黒い湾曲線、その中央に虹色のフリンジが輪を描く。僕は思わず息を呑む。
「座標、出た」
宙がピンセットで示す。フリンジの中心座標を写真端のマーカと重ねると、緯度経度に相当する数列が読み取れた。——南緯二十八度、東経百三十五度。北港から遠く離れた南洋の座標だ。
「なぜ南に?」
問いは自分でも薄いと感じた。宙は答えの代わりに、胸ポケットから携帯端末を出し、航路図を呼び出す。
タップひとつで座標がマップにピン止めされ、赤い経路が氷海から南洋へ縦断した。
「“無音”、動いてる」
断定口調。躊躇がない。
僕は額を押さえる。夢で聴いた0.7秒は静止画のようだったが、現実では移動体らしい。信じがたいが、写真は事実を連れてくる。
暗室のドアがノックされた。
背の高い男が顔を覗かせる。作業ツナギに無線タグ、腰に工具——技師ケース本人だった。灰色の瞳がまず宙を、次いで僕を測る。
「取材の人か。手伝ってくれるなら、地下層の電源ブロック解除コードを解いてくれ」
手にしたタブレットには、英数字の羅列と点検タイムライン。僕の肩越しに宙が覗き込み、すぐに指を伸ばす。
——パスコード入力。
彼女は写真のフリンジを拡大し、色相環の並びを英数字に置換する。
コードが確定し、タブレットがグリーンに転じた瞬間、ケースが口笛を漏らす。
「大したもんだ。地下リブへは保護者同伴で頼む」
視線は僕へ。保護者。奇妙な役職だが、僕の欠落がここで肩書きを得たらしい。
宙は僕の袖をほんの少し掴む。無言のまま。
*
エレベータで地下二十五層。扉が開くと、空調音が一段深くなる。コンクリ壁に走る配線ダクトが点検灯で濡れた蛇のように光っていた。
ケースは非常灯を示し、「停電してもこのラインは生きる」と説明を残し、上層へ戻った。扉が閉じると、僕たちだけが残される。
「君は、怖くないのか」
自分の声が思ったより響き、返事を待つ間に埃が舞う音さえ聴こえた。
宙は首を横に振る。
「怖いもの——もう少し先にある。だから平気」
重さを計算した言葉。怖いものがゼロではなく、まだ観測外にあるという冷静さだった。
停電まで一時間。
保守端末へログインし、フリンジ座標を解析のメインサーバへ送る手配を進める。コンソール画面が黒地に緑で文字を流すたび、心拍が同期する。
宙は端末横のパイプ椅子に座り、カメラのシャッターを切っては耳に手を当てる。——無音の気配を測っているのだろうか。
突然、床が微かに震えた。
照明が一つ、二つと落ち、非常灯だけが細い光を流す。予定より早い停電。警告トーンが低く、長く鳴った。
「——始まる」
宙が立ち上がる。地上で聴いた0.7秒の欠片が、地下では音なき衝撃波になって迫るのが分かった。
僕は端末セッションを保存し、宙の手を掴む。温度は低く、しかし脈は速い。生きた証拠。
天井から白い粉塵が落ち、配線ダクトが軋んだ。
その刹那——完全な静寂。
0.7秒どころか、呼吸すら世界から排斥されたような深黒。目で見るものすべてが遠ざかり、心拍が遅延して胸を叩く。
無音の極点で、宙が僕の手を強く握り返す。シグナル。
視界が震え、静寂が終わる。照明が点滅し、生還の気圧が鼓膜を打った。
非常灯の下、宙は息を吐き、カメラを持った手を胸に当てる。
「——ここじゃない。無音、もっと下」
僕は頷き、闇に続く保守階段を見下ろした。
雪より冷たい鉄の段を踏み外せば、そこには名前のない“結び目層”が口を開けている気がした。
そして僕たちは、一段目を踏み込む。