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制御中継室の補助灯が青く脈打ち、霧の粒が鼓動に合わせて浮き沈みする。
隔壁は締まったが、島全体の真空はまだ飢えた肺のように拍を探していた。
僕は壁パネルから非常電源ケーブルを引き抜き、美琴と宙の手を握ってドアを蹴り開ける。
通路の空気は薄紙になり、靴裏が床へ吸い付いて剥がれるたび薄い真空音が鳴る。
0.41 秒。
心拍が分解されて戻ってくる感覚──けれど三つの鼓動は絡まったまま同期した。
*
海底ドームへ続くガラス回廊入口。
非常灯が一本だけ生き残り、緑の光が硝子管を内側から満たしている。
管の中には海水ではなく、逆位相の残響が液体のように揺らぎ、虹の断片を孕む。
ドアのパネルは鍵が壊れ、ただ袖口ほどの隙間を開けて呼吸を漏らしていた。
「行くぞ」
僕は肩で二人を守るように押し込み、ガラスの床へ足を乗せる。
踏み板の下は深い紺。潮が止まったはずの海が、無音の胎動でわずかに撓んでいた。
0.40 秒。
耳がきしむたび、床の照明が一段暗くなる。
回廊は傾斜十度で海底へ降り、途中に三ヵ所の気圧鎖があるはずだった。
だが一つ目の鎖はドアごと溶断され、赤い警告液晶だけが「低圧」の文字を瞬かせている。
宙がカメラを構え、レンズを覗かずにシャッターを切った。
モニタには虹色フリンジの残光が円環となり、中央に“心拍タイムコード”の数字が焼き付いた。
00:00:40──今の欠落周期を示す心臓の秒針。
美琴がハンドライトで天井を照らす。
ガラスアーチの内側に、心拍を示す脈線が薄水色で走る。
それは生体モニタの波のように連続し、僕らが進むと二拍遅れで光が追いかけてきた。
「心拍が鍵になる……って彼女、言ってたわね」
美琴の声がかすれ、0.39 秒で吸い取られる。
*
二つ目の気圧鎖。
ドアは閉じていたが、パネルは手形認証と心拍同期の二重キー。
僕は掌をプレートに当て、宙と美琴の手を重ねた。
三つの脈が 0.390.380.39 と微妙に揺れ、プレートが緑へ滲む。
「同期率 92%──開錠」
合成音が空気の膜を叩き、ドアが静かに後退する。
背後でガラス床が震え、一段深い紺が瞬いた。
回廊の勾配は急になり、足元に重力が増す。
0.38 秒。
耳圧が限界へ近づき、鼓動が胸骨の外へ飛び出しそうだ。
それでも歩を止めない。島内で唯一、心拍が可視化される場所がこの先にあると波留が言っていた。
そこが“鍵穴”だ。
*
三つ目の気圧鎖。
ドアは白の警戒灯を犯しながら開放状態、内側は真白の光が満ちている。
まるで巨大な発光プール。
宙が息を呑み、カメラを胸に抱えたまま一歩踏み込む。
僕と美琴も続き、足裏が硬質な床から柔らかい何かへ沈む感触に変わる。
白ドーム。
海底に作られた球形の空洞は、壁面全体が乳白色の光を放ち、境界がない。
そこに唯一、床を走る赤いラインが心拍 0.38 秒で点滅していた。
ラインの中心へ着くと、壁面が脈動と同期して収縮し——虹色フリンジが円環を描く。
宙が両手でカメラを掲げる。
「心拍を、合わせて」
僕は美琴と手を取り、三人の掌を円の中央へ向ける。
鼓動が一つ、二つ、そして完全に重なった瞬間、
白ドームの光が息を吸い込み、0.37 秒で真空へ落ちた。
視界は虹に分解し、音も光も境界もないただの心拍だけが残る。
僕らの合奏は、無音の中心でやっと 0.00 秒を指した。
浮遊感。
世界の外皮が反転し、海と空が同時に膨らむ。
膨張点で、ドーム天頂が亀裂のように開いた。
向こう側に“裏層”の白が覗き、虹の縁が手招きする。
床下から逆位相残響が一斉に駆け上がり、
——この心拍を鍵に、世界を再配線しろと叫んでいた。
僕は宙と美琴を抱き寄せ、裂け目へ足を踏み出した。
白と虹の合間で重力が解け、三つの鼓動が 0.00 のまま同相を保つ。
次の拍動が鳴り始める前に、僕たちは“白ドーム”の向こう側——
音のない核心へ、着地した。




