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塔屋のガラス壁が水滴のように震えた。
――逆位相注入が限界まで上がった合図だ。
僕は制御卓の振動を手のひらで押さえたまま、通信ヘッドセットを美琴へ繋ぐ。
「宙は海底トンネル。緑の非常灯を追って中層まで下りたらしい」
『了解……でも霧が濃くて視界五メートル。欠落が 0.50 秒で固定され始めてる』
彼女の息が荒く切れ、通信が時折ホワイトノイズで途切れる。
無音域が通話帯域を噛んでいる。
波留が隣で逆転トルクを微調整しながら叫ぶ。
「タービン停止まであと五分! 同期が崩れれば、島全域で真空パルスが起きるぞ」
母——芽衣はレールカメラを肩に乗せ、僕らの背中越しに記録を続けている。
映像のためだけに動いているわけではない、と信じたい。でも今は優先度を問う暇がない。
僕はスクリーンに映る海底トンネル図を指差し、波留へ指示を飛ばす。
「逆位相ゲインを 0.2 落とせ。無音の“吸い込み”を緩めないと、人が進めない」
「出力を落とせば固定が解ける!」
「稼ぐのは三分でいい!」
怒鳴り合いの中で、計器針がわずかに下がり、塔屋の振動が小止みになる。
同時に、島の外周警報が朱を吐き出した。潮汐タービンの主ローターが、ついに止まる準備姿勢に入ったのだ。
*
タービン外殻に取り付けた振動センサを経由して、島全体の鼓動がモニタへ出力される。
周期 0.50 秒の矩形波。
鼓動というより呼吸器のフラットラインに近い。
この波形が 0.00 に落ちる瞬間、島は真空の嚙み合わせに収束し、音という概念が一度死ぬ。
「美琴、聞こえるか?」
『……霧が吸い込まれてく。視界ゼロ。宙ちゃんが音で位置を示そうとしてる——手を叩いてるみたい』
手拍子。鼓動の外側で鳴らせる最後の音。
「僕も向かう。塔屋の逆位相は波留と母が維持する。あと三分持たせてくれ」
『早く!』
通信が切れ、ガラスがきぃと軋む。
0.49 秒。欠落が島を締め付け、柱のボルトが乾いた悲鳴を漏らす。
*
螺旋階段を駆け下りると、空気は水銀のように重く、靴裏が鉄板へ吸い付く。
脈拍を早めるたび、胸に空白が溜まり、呼気は風船を潰す手触りで逃げる。
懐炉を握りたくても、ここに南の温度はない――代わりに、赤潮の残光が壁面を桜色に染め、視界を曇らせる。
海底トンネル入口。
ドアは開いたまま白霧を吐き、非常灯は緑から黄へ変色していた。
0.48 秒。
僕は霧へ踏み込み、バッグから音響ビーコンを取り出す。
ボタンを押すと、可聴域ぎりぎりのクリック音が 200ms 周期で放射される――欠落の谷間にひっかかる釣り針だ。
霧の中で何かが応えた。微かな手拍子、そして咳。
方向を取る前に、天井照明が深紅に点滅し、島内放送がノイズでひしゃげる。
『——タービン・ストール開始——』
ドン、と床が揺れた。海底設備全体が慣性を失い、巨大な心臓が呼吸を止める瞬間。
0.47 秒。
「宙!」
声は千切れ、霧の繊維に絡まる。それでも反響の残骸が近くで震え、少女の影が浮かぶ。
白いコートの袖が上がり、指がこちらを探す。
僕は二歩で距離を詰め、腕を引いた。
その瞬間、霧が渦を巻き、空気が栓を抜かれたように抜け落ちる。
真空が来る。
宙が口を開き、声にならない声で叫ぶ。
ヘッドセットが赤点滅に戻る――無音が心拍を奪い返しに来た。
0.46、0.45。
「走れ!」
片腕で彼女を抱え、ビーコンを反対の手に握り直す。
クリック音は無音に食い荒らされ、代わりに骨伝導のような震えが掌へ残る。
前方に美琴のシルエットが現れ、ハンドライトが僕らを迎えた。
しかしその光も次の瞬間、真空に吸い込まれて消える。
島全域停電。
0.44 秒。
闇を切るのは三人の心拍だけ。
僕は壁を手探りで進み、タービン制御中継室へのハッチを蹴破った。
中は機器のLEDが非常電力で僅かに光り、赤い点滅が逆位相ラインの切断を示す。
「波留、聞こえるか?」
通信は無音。塔屋リンクが落ちた。
宙がショートしたレンズを抱え、震える唇で呟く。
「……心拍が鍵。重ねて」
僕と美琴は手を伸ばし、彼女の掌と重ねた。
鼓動が三つ、一瞬だけ位相を合わせ、0.43 秒で闇を叩く。
パネルのブレーカが緑に跳ねた。
逆位相ルートが一秒だけ復帰し、島内に微光が走る。
その光で美琴の顔が浮かび、涙と汗で濡れていた。
すぐにまた闇が戻るが、十分だった。ハッチ上の手動レバーが赤から黄へ動き、
——隔壁が再閉鎖。真空の流入が止まる。
耳鳴りが戻り、0.42 秒でようやく呼吸が肺まで届く。
「もう……逃げない」
宙が呟き、握った手にわずかな熱を取り戻した。
外では潮騒が止まり、島が深呼吸の前で静止している。
タービン停止——All Is Lost。
でも、拍動はまだ三つ、絡まったまま残っている。




