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 避難アナウンスのサイレンが塔屋を貫いた直後、甲板は蜂の巣を突いたような騒然へ跳ね上がった。

 私は救護バッグを抱え、クルーの流れを逆走してプール棟へ向かう。

 ——宙ちゃんがいない。

 タービン逆転を開始した途端、塔屋の非常ライトが一度明滅し、その暗転のわずか二拍で彼女の影が消えた。


 タービン塔下のメンテ用通路は人の気配が希薄で、逆位相の唸りだけが鉄骨を這う。

 0・56秒、0・54。先ほどよりさらに短い欠落が背骨を叩く。

 心拍が狂うのを、バッグに忍ばせたパルスオキシで強制的に計る——酸素は足りている。足りないのは音だ。


 プール棟へ飛び込むと、赤潮光は白に飽和しきれず、ピンクの水蒸気となって天井に凝っていた。

 観光客は避難し切ったらしく、ガラス床に残るのは荷物と転がったハンドライトだけ。

 その片隅、ガラス越しに海底トンネルへのドアが開き、濃い霧が漏れている。


「宙ちゃん!」

 声は吸われ、返事はない。

 私はドアへ駆け、霧を掴むように腕を伸ばした。

 空気が飴細工のような抵抗を示し、その膜を破る瞬間、0・53秒の無音が耳介を切る。

 トンネル照明は非常灯の緑のみ。海底へ落ちる斜路の先で、白いコートの裾が翻った。


 ——追い付かなければ。

 一段降りるたび、無音は私の足音を削り、ヒールの衝撃だけを残響にする。

 ヘッドセットは持っていない。代わりに舌先で歯茎を擦り、自己の音を捏造して鼓動を繋ぎ止める。


 中間エアロック。気圧差警報が赤で点滅し、ドアは半開き。

 私は隙間をこじ開け、薄い海霧を胸いっぱいに吸う——潮の匂いはなく、代わりに静電気が舌を刺す。

 視界の底で、宙ちゃんがガラス越しに立ち止まった。

 ヘッドセットのランプは緑から黄へ。彼女の背中が迷いと決意で震え、すぐにまた前へ跳ねる。


 「待って!」

 無音が叫びを螺旋へ巻き取り、0・52秒で切る。

 それでも彼女は振り返った。レンズの向こうではなく、裸眼で私を捉える。

 たしかに唇が動いた——『結び目』。音の代わりに霧が震え、文字みたいに凝った。


 次の拍で、照明がブラックアウト。

 心臓が外気へ放り出されたみたいに寒い。

 バッグからペンライトを抜き、スイッチを押す。

 光円の中にはもう誰もいない。濃霧だけがガラスの縁をなぞり、奥へ吸い込まれていた。


 *


 ブリッジの内線を取ると、透の声がやけに遠い。

 『宙が消えた? 今、逆転トルクが最大に跳ねた——位置を教えろ!』

 私は海底トンネル中腹のセクション番号を告げ、通信を切る。

 ドア横のパネルで非常閉鎖を試みるが、操作系は凍り付いたみたいに反応しない。

 0・51秒。欠落が息継ぎの長さを奪っていく。


 深呼吸。酸素はまだある。

 私は霧を切り裂くようにコートを掻き合わせ、奥へ進んだ。

 宙ちゃんは一人じゃない。私が証明する。

 心拍とハイヒールの打撃音を重ね、0・51秒の静寂の淵を越えていく。


 背後でタービン逆転音が海底から唸り上げ、ガラス壁を震動で満たす。

 遠雷のようなその鼓動が、ほんの少しだけ0・51を延ばした。

 ——まだ間に合う。


 私は霧の裂け目へ足を踏み出した。

 赤潮光はすっかり白に溶け、前方に灯る非常灯だけが緑の糸を引く。

 その糸の先で、宙ちゃんの小さな背中が再び揺れた。

 無音は深いが、繋ぐ手はまだ届く距離。


 私はバッグを握り直し、爪の先で鼓動を数えた。

 0・50秒。拍は細いけれど、まだ切れていない。

 走る。次の静寂が、彼女を引き裂く前に。

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