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リムプール棟のガラス天井は月光を拒み、紅い非常灯だけが水面へゆらぎを落としていた。
母のクルーが撤収を終え、三脚とレールを片づける間、私はタービン塔脚部の点検デッキに立つ。
潮汐グラフによれば、あと十時間で潮流が完全に止まる。——島の心臓が沈黙する前夜。
耳鳴りはもはや“鳴り”ではなく、一拍ごとに空洞へめり込む“吸い込み”に変わっている。
塔屋へ続く螺旋階段。鉄骨の踏み板を叩くブーツ音が、途中でごっそり奪われる。
0・66秒。
——音が短い無酸素区間を挟み、血液が遅延を起こす。
手摺りを握った指先に温度がない。懐炉を持たない南の島で、凍える感覚だけが北港を呼び戻す。
塔屋ドアを押し開けると、母と波留さんが制御卓を挟んで口論していた。
「逆位相を注入すれば、無音は固定できる。君の映像も撮れるはずだ」
波留さんの必死の説得を、母は片手で遮る。
「固定された瞬間は“死後硬直”と同じ。瞬きの一枚を超える熱はない」
私は足を踏み鳴らし、二人の間へ割って入った。
「音を殺してまで、何を残したいの?」
母の瞳は夜光鉱石のように淡く光り、感情の焦点距離を外したまま私を映す。
「あなたは“欠けた音”のおかげで世界を見つめられる。私は“欠けた世界”を見せることでしか、あなたと──」
そこで言葉が途切れる。
母が私を“被写体”ではなく“あなた”と呼んだのは、記憶にない。
胸がひとつ脈打ち、耳鳴りが電流に変わる。
「要らない!」
声帯が震え、0・65秒で消える残響が塔屋へ跳ね返る。
「私を切り離して撮らないで。私が欲しいのは、シャッターじゃなくて——返事だよ!」
怒声が押し寄せても、母のまぶたは微塵も揺れない。
波留さんが肩を掴むが、私は振りほどく。鉄骨が軋み、制御卓の計器針がギギと跳ねる。
「宙ちゃん、落ち着いて――」
波留さんの声は途切れ、かわりに無音の“吸い込み”が塔屋全体を包む。
0・63、0・62。
制御卓のスピーカーが真空を啼くように歪み、警報灯が白熱灯の白へ焼き切れる。
耳鳴りが音域の底を失い、視界が赤潮光の残滓で滲む。
母が初めて私を掴む。両肩を正面から。
指は細いのに、氷港のガラスより冷えていた。
「怖いの?」
声が震えたのは私か、母か。
「怖いなら言って。私は、あなたを、撮るんじゃなくて——」
言葉が続く前に、塔屋床が低く嗚咽し、主照明がブラックアウト。
0・60秒。
世界の拍動が、限界へ近づく音を奪いながら速くなる。
波留さんが非常灯を点し、母と私を引き剥がす。
「もう時間がない! 逆位相を注入するか、避難するか。宙ちゃん、選べ!」
私は母の掌の冷えをまだ肩に感じながら、制御卓のレバーを見る。
レバーの基部に貼られた警告シール——〈OFFで潮汐停止・ONで逆回転〉。
欠落を武器に変える鍵。
息を吸う。0・59秒で肺が凍る。
「……私が引く」
母が小さく瞼を伏せた。波留さんがセーフティピンを外す。
計器針が0を越え、逆相入力ラインが緑で点滅する。
「相殺を始めると無音が跳ねる。島中に衝撃が走るはずだ」
透が階段を駆け上がり、ヘッドセットで波形を確認しながら告げた。
「みんなを避難させる。宙、時間を稼げ」
私は頷き、母の手をもう一度掴む。
——温度はなかった。でも、震えは私と同じ速さで走っていた。
「撮るなら、一緒に」
そう言うと、母のレンズにわずかな湿りが差し、波留さんが顔をそらす。
塔屋の外で赤潮光が白へ変わり、耳鳴りがゼロへ向けて吸い込まれた。
0・58、0・57——。
私はレバーへ手を伸ばし、母の掌を重ねて押し下げる。
闇が襞を裏返し、塔屋に真空が爆ぜた。
無音が鼓動を呑み込み、次の拍動がまだ戻らない。
それでも私の脈は——母の脈と束ねたまま、離れなかった。




