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船底が潮の膜を滑り、赤道を越えた朝の光がすり硝子のように柔らかい。
私は甲板のはしごを降り、接岸用のゴム艇に乗り移った。
ブローオフ弁から吐かれる白い気泡が、海面下で淡い紅を孕む。
——赤潮光。聞いていたとおり、珊瑚礁のプランクトンが夜通し光合成を続け、朝になっても蛍を閉じ損ねている。
カメラを構えるより先に、目で見ておきたかった。
波留さんが舳先のエンジンを絞り、短いブザーで着岸を知らせる。
桟橋は珊瑚を砕いたコンクリに覆われ、靴底で砂糖菓子を踏むみたいな感触。
潮風が真綿のようで、氷港の鋭利な寒さとは別物だ。
私は港の案内板に手を触れ、文字の凹凸をなぞる。
〈リムプール・サンクチュアリ〉――海底温泉アトリウムと潮汐タービンを抱く離島。
母がロケ地に選んだ理由が、ここへ来てやっと腑に落ちる。
無音の心臓を包む殻として、これほど静かな器はない。
透が船を降り、僕らの足跡と並ぶようにして歩く。
彼が肩越しに声をかける。「温度、平気か?」
私は首を振り、赤潮光で指先が朱く染まっているのを見せた。
「ここは温かいから、カイロはいらない」
言いながら胸ポケットの懐炉をそっと握る。
形だけでも、氷港から続く結び目を手放したくはなかった。
*
ガラス張りのリムプール棟へ入ると、湿った空気がレンズを曇らせた。
床面から三メートル下、半球ドームの底に海水が満たされ、陽光の代わりに赤潮が揺れる。
水面と天井の狭間に私たちが浮かんでいるみたいで、
カメラを覗くと視界の上下が海と空でひっくり返った。
透はガイドの話を半分聞き流しながら手摺りを叩き、反響を録る。
「音が戻ってきた——でも柔らかい」
彼の言葉どおり、拍手が羊毛で包まれて返る。
ここでは無音ですら、角を削ってからやって来る。
プール底の温泉排出口に近づくと、水がフリンジに似た虹を吐く。
私はシャッターを切り、RGBのうち B だけが微かにぶれているのに気付いた。
深度方向に揺らぐ青――逆位相が形を変えたシグナルかもしれない。
ヘッドセットを当てると、ノイズフロアがかすかに沈む。
心拍が水流と絡み合い、リズムが 0.72 秒へ引き延ばされる。
「タービン停止カウント、T‐22h」
波留さんが手首の端末で告げる。
母の撮影隊は既に海底トンネルへ機材を運び、赤潮光を逆光に使った景を押さえているらしい。
私は排出口の縁で跪き、ローアングルで湯気と虹を狙う。
シャッターの振動が膝から骨へ抜け、水面に同心円の波紋を産む。
その波紋がきらりと光る。
青だけが、また遅れて揺れた。
透が肩を並べ、波紋を指で割る。
「無音が島を包む時、ここが最初に“凍る”はずだ。
音が温度を失い、赤潮光が白に飽和する」
私はファインダーを降ろし、水滴を袖で拭った。
「その瞬間を――撮る?」
問いは自分へ。けれど透が代わりに答える。
「撮って、返す。欠落の証拠を結び目に変える」
*
リムプールを出ると、島の外周を巻く遊歩道に赤い警告灯が点った。
潮汐タービンの慣性ブレーキテストが始まる合図。
ガイドは観光客向けの放送を流し、安全区域への退避を促している。
私は屋外の空気を吸い込みながら、タービン棟の塔屋を見上げた。
—あそこが本当のビートだ。
母のクルーがレールカメラを塔屋へ送っているのが遠目に見える。
赤い警灯に照らされて、機材と人影が同じ輪郭で揺れる。
透が歩調を合わせ、低い声で囁く。
「見守るだけじゃいられない。
ピンチ2——欠落を武器に変えるには、あとひと押し要る」
私は拳を握り、海風の湿気を爪の間で切った。
「わたしのレンズ、使って」
言い終えてから鼓動が早まる。
透は一拍置き、頷いた。
タービン停止まで T-21h。
赤潮光はまだ揺れ、青の遅延はほんの脈拍ほどの誤差。
でもその差こそ、次の無音への導火線。
私はカメラを胸に抱き、波紋の残像を瞼で反芻した。
欠けた色を、島の夜がもう一度撓ませる前に——。




