13
船輪が夜明けを割り、羅針が赤道を指した。
ブリッジ正面のガラスに朝焼けが滲み、薄い紅が海面へ平行線を描く。
僕はレーダー脇のログ端末を叩き、前夜からの音響センサ波形を呼び出した。
——あるはずのノイズが、途中で 0.7 秒ずつ欠落している。
消失点は南緯二十九度を境に等間隔で現れ、その間隔が緩やかに短くなる。
「無音は南へ引かれる」。昨日ケースが残したメモの一文が、モニタ上で可視化された。
波留がコーヒーポットを抱え、肩越しに覗き込む。
「潮流のベクトルとも合いますね。音が水塊に牽かれてる」
彼は紙コップへ注ぎ、液面に映る波形を指で弾いた。
「欠落区間を全部つなげば、航路図になるかもしれない」
冗談めいて言うが、目は本気だ。
僕は頷き、ログデータを CSV で取り出して船の航跡ファイルに重ねる。
緯度線を挟んで無音ピットは刺青の点列になり、
赤道直下で一点に収束し、そこで途切れている。
——目的地が近い。
宙はブリッジの後部でカメラを分解清掃していた。
レンズ表面の潮霧をクロスで拭い、シャッターを空切りしては耳を澄ます。
「響きが変わった」
彼女が呟く。
僕はヘッドホンを半分貸し、最新ログを再生する。
可聴域にほとんど達しない低周波が、動物の遠吠えのように脈動していた。
「波ではない。心拍に近い」
宙の言葉に波留が顎を引く。
「海底タービン停止時、この周波数がゼロになると仮定すれば……」
彼はノートに式を書き、潮汐テーブルと突き合わせた。
「停止予定より三時間前倒しで無音が臨界に達する」
早まる。時間が削れる。
ブリッジのスピーカーがクリック音を吐き、船長が一度咳払いする。
『南洋フリンジ海域へ入った。船速を一五ノットへ落とす』
ガラスがわずかに揺れ、エンジン音が下へ沈む。
――そこで、僕の鼓膜がぱちりと弾けた。
0.7 秒の虚ろ。
ログ端末の波形が同期し、赤いバーが一瞬フラットになる。
宙がシャッターを切る。
ファインダーを覗かず、ただ音の消えた空間を掴むように。
波留が息を飲み、メモを破いて差し出す。
〈欠落連結=航跡/赤道着底点〉
「この数式、タービンの回転数を逆位相にすれば——欠落を固定できるかもしれない」
僕は紙を受け取り、数字列を眺めた。定数の間に心拍周期 0.7 が挟まれている。
「潮が音を奪うなら、潮の機械心臓を逆に回して返せる」
言葉にすると無謀だが、波留の目は現実の歯車へ落とし込む計算で満ちていた。
宙はレンズキャップを閉め、僕の袖を軽く引く。
「記録が繋がれば、音も繋がる?」
彼女の問いは、数字より体温を欲している。
僕は頷き、船のデータリンクにログを送信しながら言った。
「記録は結び目だ。切れた音の先端を探して、次の拍動に結び直す」
宙の瞳に朝焼けが映り、フリンジの残像が揺れた。
*
午前 0800、船は赤道線の上を滑る。
ログ端末は新しい欠落点をまだ検出していない。
嵐の前の静かなビート。
タービン停止まで—— T-24 h。
波留はエンジンルームへ走り、逆位相注入の準備を始める。
僕は航跡ファイルを閉じ、ブリッジの窓を開け放った。
塩風の匂いが肺を満たし、耳鳴りの余韻が薄れる。
赤道をまたいだ瞬間、船体が一拍だけ沈んだ。
世界が呼吸をため直す合図のように。
無音はまだ水平線の裏側だが——
次の欠落点は、きっとこの手の中で測れる距離にある。




