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12

 甲板に出るたび、世界は真っ二つに割れて見える。

 艦尾から立つ白い航跡と、濃い夜色との境界。

 私は身を乗り出し、レンズを覗かずに瞼で星を測った。

 ——ここでは、シャッターより鼓動のほうが正確だ。


 潮風がコートを膨らませ、懐炉の温度を攫っていく。

 ポケットの中で指を折り返し、心拍を数える。

 0・69、0・70、0・68……

 船のエンジン脈動が下腹で共振し、数値をわずかに引き延ばす。

 音はある。だからこそ、遠くの“無”が輪郭を滲ませて浮かぶ。


 手首に巻いたヘッドセットの波形は‐12dB付近を波打ち、

 ときどき一瞬だけ底割れして、そこに虚ろな緑の閃きが残る。

 まるで深海魚の目。

 その光が生き物ではなく、音の死骸の反射だと知っても、

 私はそこに吸い寄せられる。


 「寒くないか」

 背後で透の声。

 私は首を振り、返事のかわりに空を指さす。

 天球の一点、星が逆相で脈動している——

 実際には瞬きを繰り返すだけの恒星が、私の目には

 音のドラムと同期して縮んだり膨らんだりして見える。

 「無音の源が、あそこにある?」

 透が同じ星を追い、言葉だけで輪郭を撫でる。

 「違う。音が“引かれて”いる方向……」

 言いながら自分の声も星の引力へ細らされ

 かすれた息だけが甲板を滑った。


 エンジン回転が一段上がる。

 船長が潮流と氷塊を避けて南寄りに舵を切ったのだろう。

 船体が傾き、空の星図がわずかにずれる。

 0・68、0・67——

 鼓動が新しい方位へロックオンしたのを感じる。

 私の身体は羅針盤より先に、

 “欠落”へ向かうコースを選んでいる。


 透が肩にブランケットをかけてくれた。

 毛布の重さが、失ったはずの温度を思い出させる。

 「タービン停止まであと──二十九時間」

 彼の囁きに合わせ、私はファインダーを目に当てた。

 ISOを上限に、F値を開放、シャッタースピードを心拍と同調させる。

 反対位相の星がスリット状に伸び、

 軌跡の端で虹色フリンジがかすかに滲んだ。

 潮汐タービンが息を止める瞬間、

 このラインは地球ごと音を一拍欠く。

 ——そのシナリオを、私は確かめに行く。


 撮影を終えても、星図はまだ震えている。

 私はカメラを下げ、透の腕をそっと掴んだ。

 「ねえ、音って、測れる?」

 「波形でなら」

 「身体でも測れる?」

 言ったあとで頬が熱くなる。

 けれど透は躊躇わずに掌を差し出し、

 指先で私の脈を重ねてきた。

 風音、エンジン、潮騒、鼓動。

 それらが一度に 0.7 秒だけ途切れるイメージを共有し、

 戻ってくるはずの拍を二人で探す。


 耳鳴りがふっと遠のき、

 かわりに船腹を叩く波がリズムを取り戻した。

 無音の手がまだ届かない今のうちに、

 星図を全部頭へ焼き付ける。

 欠落を抱えたままでも、

 私たちは次の拍で必ず鳴れる——

 潮風の向こうでタービン停止のカウントが

 静かに数字を削る音がした。

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