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 桟橋に係留された砕氷船〈ガラスワルツ〉は、夜霧の中で低く唸っていた。

 船体の照明は半分しか点かず、氷に噛むプロペラのテスト音が港全体へ震動を撒く。

 技師ケースとクルー数名がブリッジで書類を回し、蒼井芽衣の撮影隊が機材をクレーンで積み込んでいる。

 ——ドームは応急復旧したが、0.7秒を孕む“音の死骸”は南へ逃げた。追わなければ終わらない。


 私は桟橋の端で凍結防止ランプを踏みながら、宙と美琴、波留の三人を見やった。

 宙は母の撮影クルーに混ざり、カメラバッグの重量を確かめている。

 美琴は乗船リストに私と宙の名前を追加し、波留はその横で船長と航路の最終確認をしていた。


 ケースが書類を携え近づく。

「綾瀬、あんたも来るか?」

 問いはすでに決定事項として響く。私は頷き、サイン欄に名前を書いた。

 同行決定。それは保護者から共犯者へ肩書きを換える劇的な一筆だった。


 *


 乗船直後、船内汽笛が一度だけ鳴った。

 音程は正しく、しかし最後にわずかに揺らぐ。耳鳴りの前兆だ。

 宙が振り返り、眉を寄せた。「波が、音を奪う」

 私は通路の手摺りを叩き、共振を確かめる。鉄骨はまだ鼓動を携えている。


 出港ミーティング。

 蒼井芽衣がブリッジでクルーに指示を出す声は、脚本の読み合わせみたいに無機的。

 航路は北港から南南東へ、赤道へかかるまで三十時間の予定。

 私はマップを見つめながら口を開く。

「もし無音が船に追いつけば、通信もエンジンも止まる。リスクを承知か?」

 母はタブレットから視線を上げずに答えた。

「壊れてこそ撮れる映像がある」

 その言葉が宙の胸で火花を散らす。

「私たちだって——壊れていい被写体じゃない!」

 怒声がブリッジのガラスを震わせ、クルーが凍り付く。

 私は宙の肩を掴み、目線を合わせた。

 「同行するのは、壊さないためだ。お前の音を奪わせない」

 彼女は僅かに息を震わせ、やがて頷いた。


 *


 荷役デッキで最終チェック。

 美琴が救難ビーコンを私のジャケットへクリップで留めながら小声で言う。

 「怖くないんですか?」

 震えを誤魔化す笑み。私は船縁から氷港の灯を見やる。

 「怖い。でも、欠落の正体が見えた今、放置のほうが怖い」

 灯が遠ざかると同時に汽笛が二度鳴り、耳鳴りが船腹へ吸い込まれる。

 無音域が追って来ている。鼓動がそれを測るメトロノームになる。


 *


 深夜一三三〇。

 甲板では風速計が唸り、空は雪雲の向こうで星を隠している。

 宙と私は手摺りに寄り、心拍計代わりに互いの手首を押さえた。

 0.71、0.69——耳鳴りが波と同期し始める。

 宙がカメラを上げ、闇へシャッターを切る。

 フリンジ無し。無音はまだ水平線の下。

 「追いつかれる前に、座標へ先回りしよう」

 私の言葉に彼女はファインダーを降ろし、月のない空を見上げた。


 遠くでタービン停電時刻を刻むカウントダウンが脳裏に浮かぶ。

 ——T-29 h。

 船は氷港を離れた。次に戻るとき、北のドームは無音の始点ではなく、結び目の一端になっているはずだ。

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