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 救護区画の簡易ベッドに横たわりながら、私は天井の点灯パターンを数えていた。

 1 2 3 4、ここで一拍遅れる。——ドーム全体がまだ完全には呼吸を取り戻せていない証拠。

 透は対角の椅子に腰を掛けたまま書類をめくっている。美琴さんは技師との連絡役で数分おきに抜け、戻るたび熱い飲み物を差し出してくれた。

 手の中の紙コップが温かい。けれど指先はそこまで届かず、震えだけが残る。


 カーテンが揺れ、薄荷の香りが差し込んだ。

 ——母。蒼井 芽衣。

 長い黒髪を後ろでまとめ、視線だけでスタッフを散らす相変わらずの重力。

 後ろには波留さん。色味を抑えたコート姿でも、彼だけは雪を払うみたいに場の温度を変える。


 母の視線が私の身体の端から端までを測り、最後にヘッドセットへ留まる。

「壊してはいないでしょうね」

 それが再会の最初の言葉。私は答えずに紙コップを握り直し、数を数える。1 2 3——。

 透が立ち上がり、静かに頭を下げる。

「娘さんは低体温でしたが、今は安定しています」

 母の視線が透へ移る。切れ味の鋭いレンズが初見の男を分析する数秒間。

「取材屋ね。ご苦労さま」

 それだけで話は終わったように空気を切り替え、母は波留さんへメモを渡す。


 私は耳当てを外し、縁を指でなぞった。

 ——ここまで来ても、“ありがとう”は聞けないのだろうか。

 代わりに波留さんが微笑んで私のベッド脇に屈む。

「宙ちゃん、君の写真が必要なんだ。フリンジの最新ログを、芽衣さんが解析したいって」

 私はカメラを胸から外し、バッテリーチェックのあと差し出す。

 母の手ではなく、波留さんの手に。

 「ありがとう」

 波留さんが小声で言い、その言葉が母を避けるように私に届いた。


 透が咳払いをして一歩前に出る。

「蒼井さん。無音現象は港全体から南洋へシフトを始めています。ここが安全とは言えません」

 母は眉ひとつ動かさず、タブレットに視線を落とす。

「安全な場所などどこにもないわ。私たちは“音の死”そのものを撮りに来たのだから」

 まるで被写体が壊れてこそ価値があると言わんばかり。

 私は無意識に声を上げていた。

「壊したいの? 世界を、音を——それとも私を?」

 室温が一度下がる。母の視線がやっと私を正面から捉えた。

「壊すのではなく、“事実を固定する”の」

 冷たい響き。レンズ越しに世界を平面へ押しつぶす、その手際のまま私を測る。


 波留さんが間に立ち、声のトーンを和らげた。

「まずは身体を休めて——船の準備が整い次第、島へ向かいます」

 島。あのフリンジが示した座標。

 母は頷き、私の枕元にタブレットを置いた。そこには潮汐発電タービン停止までのカウントダウン、T-36 h。

 「明日夜に出航する。あなたが行くなら、観測機材を自分で管理しなさい」

 条件だけを投げて、母はカーテンを払って去った。雪混じりの外気が一瞬だけ香る。


 ベッドサイドに残った透が、私の紙コップを指で押す。温度はほとんど消えていた。

「行くつもりか?」

 私は頷く。

「欠けたままでも、人は鳴れる——その答えを、島で見つけたい」

 声が少し掠れ、透は苦笑して新しいカップを取りに行く。

 背中越しに、起承転結の“転”が胸で鳴った。もう数えられない拍動で。


 波留さんがカメラのモニタを開き、フリンジ写真を確認しながら呟く。

「僕も船に乗るよ。君と芽衣さんの媒介になるためにね」

 媒介。結び目を繋ぐ溶媒。

 私はファインダー越しでなく、直接彼の笑顔を見る——少し眩しくて、カーテンの隙間の光を思い出す。


 遠くでサイレンが再び鳴り、今度は途切れなかった。

 0.7秒の空白はまだ終わらない。でも、音は手を伸ばせば捕まえられる距離に戻ってきている。

 私は深く息を吸い、心音を数え直す。1 2 3 4——月明かりの代わりに、タービン停止のカウントが鼓動を速めた。

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