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01

 ——夢の終わりに、決まって音が切れる。

 誰かが世界の主電源を容赦なく落とし、残響だけが白い息のように漂う。そこから先は無音。耳の奥が軋み、瞬きのたびに鼓動が遅れて跳ね返ってくる。その0.7秒を、僕はもう十七夜連続で味わっていた。


 その答えを探すため、吹雪きつける北港へ来た。

 氷海の上に浮かぶ複合ドーム〈ガラスの湾〉——遠目には雲間に吊るされた灯台ガラスのようで、近づくと巨大な雪片が継ぎ目を滑り落ちていく。港の係船桟橋は半分凍り、靴底が滑るたび風鈴のように氷が鳴った。


「取材? この季節に?」

 受付窓口の青年が怪訝そうに眉を動かす。取材証を見せ、悪夢の現場確認だとだけ告げると、彼は肩を竦め通行カードを差し出した。

 僕は礼を言い、内ポケットの懐炉に指を滑らせる。震えではなく、熱が指紋を確かめたがっていた。


 ドーム本体に入ると静電気が走り、吹雪の喧騒が硝子膜で急速に減衰した。

 気圧の違いか耳が詰まる。少し口を開けて空気を嚙む。——僕自身の呼吸音さえ雪に埋もれたみたいに薄い。


 ラウンジへ至る連絡通路。

 背後の自動ドアが閉まる瞬間、外気の吠え声が一拍遅れて千切れた。

 そのわずかな遅延が、夢で聴いた“0.7秒”を思わせて身を硬くする。偶然か、兆しか。ここが始まりだと告げる足音が床で反響した。


 ラウンジは無窓設計で、人工照明の昼光色が氷色の壁を均一に照らし、天井埋め込みのスピーカーからジャズピアノが微かに漏れている。

 しかし僕はBGMよりも、窓際ソファに座る小柄な影に目を奪われた。


 少女——十三歳ほどだろう。

 紺のピーコートに毛糸の耳当て、膝に載せた銀のレンジファインダーを弄っていた。シャッターの空振り音が氷粒のように乾いた。

 彼女は僕の視線に気づくと、レンズ越しのように首を少し傾ける。それだけで距離感が測りきれず、僕は咳払い一つで自分を誤魔化した。


 取材ノートを手に、カウンターでホットレモンソーダを注文する。

 炭酸の抜けかけた甘さが喉に落ちる頃、ジャズピアノのリズムがふっと痙攣した。

 ——無音。


 まるで誰かが空気ごとピアノ線を刈り取ったように、音が0.7秒だけ真空へ沈む。耳圧が跳ね、心拍が外気温と同調する。それは夢と同じ長さだった。


 僕は肩越しに少女を見た。

 彼女もまた、カメラを抱えたまま息を止め、目線だけで空気の裂け目を追っている。視線が重なる。僕は思わず頷いた。

 ——君も聴こえたのか。

 言葉にしなくても伝わったらしく、少女はシャッターを切った。フラッシュは焚かず、透明な静電気だけが走り去る。


 音が戻ると、ピアノは何事もなかったように次の小節を弾き続けた。客の誰一人騒がず、グラスの氷が触れ合う音だけが浮いている。

 僕の胸に残った鼓動のタイムコードは、0.7秒の空白を刻んで離さない。


 少女はこちらへ歩み寄り、テーブルの端に小さなSDカードを置いた。

「証拠、いる?」

 声は氷の欠片が触れ合うように硬質で、それでいて割れやすい薄さがあった。

 僕は頷く。


「綾瀬 透だ。コピーライター崩れの取材屋。君は?」

そら。——迷子」

 肩を竦めた仕草は年齢以上に達観して見える。

 迷子。単語にしては説明が足りないが、確かに彼女はここに属する匂いを持っていなかった。


 SDカードをノートPCに挿す。

 再生されたラウンジの映像は、BGMが切れる瞬間だけ虹色のフリンジを画面全体に走らせ、再接続後に溶ける。逆位相の残響が可視化されたようだった。

 僕は鳥肌を押さえ、夢の現象が現実に結ばれた事実に息を呑む。


「——なあ、宙。君はどうしてここに?」

「母が撮影。私は待機員。けど……置いてかれた」

 単語を整然と並べる口調。感情の抑揚より、意味の切り出しが優先されている。

 僕は懐炉を握り直し、温度の有無を確かめる。誰かの手が必要とされる位置。そこに、僕自身の欠落が吸い寄せられていくのがわかった。


「なら、一緒に原因を追わないか」

 自分でも唐突だと思う申し出だったが、宙は即答した。

「取材協力。報酬、レモンソーダ二杯でいい」


 笑えばいい場面だ。けれど僕は笑えず、ただ承諾の印にもう一杯追加注文した。

 湯気混じりの炭酸が二つ並ぶ。同時に、館内放送が低く唸った。


「技師ケースより館内滞在者へ。地下保守層の一部点検のため、本日22時より電源系統の局所停止を行います——」


 点検。局所停止。

 それはすなわち、再び“無音”が制御下で起こる可能性を意味していた。

 宙はストローを噛みながら視線で尋ねてくる。——潜るか、潜らないか。


 僕は頷いた。

 0.7秒の終端から、このドームの静寂が始まったのだから。

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