8.ログアウトエラー
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
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『擬音』のプロジェクトは、世間的には大成功という形でスタートを切った。利用者は日を追うごとに増加し、売上は現在まで好調だ。クライアントからの評価も高く、社内はしばしの祝賀ムードに包まれた。だが、その喧騒はひどく空々しく、まるで私の耳から心へと届くはずの通信が、途中でいつも“プツり”と音を途絶えた。だから、私はその間ただ、近頃では味も歪んでしまったように感じるコーヒーを、胃に流し込むだけだった。
次の大規模プロジェクトの噂も聞こえてくる。誰もが成功を祝し、次のビジネスへと目を輝かせていた。だが、私の心は成功とは程遠い座標を、今もなお指し示している。
オフィスで仕事をしていても、街を歩いていても、あのカフェで見た高校生カップルの虚ろな目が脳裏に焼き付いて離れない。私が作り上げたシステムは、今日も滞りなく動き、人々の感情をリアルタイムで数値に変え続けている。そして、そのシステムの対極で生まれた「ナイスヴォイド・チャレンジ」という名の病は、社会という名のガラスのコップに走った、最初の亀裂のように思えた。
そのコップには、これまで私たちが共有してきた価値観や日常という名の、透明な水がなみなみと注がれている。亀裂はまずその透明さを奪い、内側にあるはずの水――人々の営みや心の機微が、亀裂によって乱反射し、歪んで見え始めるのだ。何が正しくて、何に価値があるのか、その輪郭が徐々にぼやけていく。
そして、人々がその歪んだ像に慣れ、中が正しく見えなくなった時、コップそのものが音を立てて崩れ、決壊するのではないか。そうなれば、中にあったはずの水はすべて地面にこぼれ落ち、もう二度と元には戻らない。
私が見ているのは、その取り返しのつかない崩壊の、ほんの始まりの兆候ではなかっただろうか。あの時感じた自分だけの安堵を代償にして、私は社会の巨大な何かを育ててしまったのではないかと思うと……その事実は、日に日に重く私の精神にのしかかってきた。
夜は眠りが浅くなり、朝のお気に入りのマンデリンコーヒーも、もう苦みすら感じられない、ただの粘性のある液体としか思えなくなっていた。プロジェクトが今後は運用フェーズのみで回せる状態になったことを確認し、チーム内でのほとんどの業務を引き継いだ。そして、それが完全に私の手を離れた時、心の中で張り詰めていた糸が、今度は私自身の内側で“プツリ”と切れるのを感じた。
もう、現実を見るには限界だった。
私は、溜まっていた代休と有給休暇をすべて繋げ、3ヶ月の長期休暇を申請した。上司はプロジェクトの成功に気を良くしており、「功労者だからな。ゆっくり羽を伸ばしてこい」と、あっさりと承認してくれたのが救いだ。
彼はとても優しく穏やかな笑みだった。でも、その顔を殴る理由はないけど、私は殴りたかった。
私は、すべての仕事道具を会社のロッカーに乱暴にぶち込んだ。身の回りに、一切それらを置きたくなかったからだ。最低限の荷物だけを持って、都会の喧騒から逃げ出すように電車に飛び乗った。行き先は、特に決めていなかった。ただ、何もなく、人もまばらな、静かな場所に行きたかった。
数日かけて辿り着いたのは、海沿いの小さな町だった。WiFi設備すら存在しない古びた民宿が、今は堅牢な要塞のように思える。それほどまでに気が滅入っていたが、ようやく少しだけ、周りを見渡せるくらいにはなっていた。時間はゆっくりと流れ、そこに向かう途中に見た、堤防沿いの夕日の美しさは、ここ数年自分が追い求めてきたものとは、まったく別の座標軸に存在する何かを思い出させてくれた。
緊急用に持ってきたスマートフォンの電源は、ほとんどの場合切っており、ニュースも、SNSも当然見ることはない。私は、自分が蒔いた混乱の種から目を逸らし、この穏やかな時間の中に逃げ込むことで、すり減った心を回復させようと必死だった。
最初の二週間は、あの日の夕日を除けば、他に特別なことは何もなかったが、ただ平穏だった。回復の兆しは、意外な形で訪れた。業務用で量が多いことしか取り柄がないと思っていた民宿のブレンドコーヒーを、久しぶりに「美味しい」と感じられたのだ。このまま、すべてを忘れ、ここで新しい人生を始めるのも悪くない――そんな、この先実行するはずもない計画性のない妄想に没頭できるだけの心の余裕が、私に戻ってきたこともあった。
だが、私が止まっていても、世界は止まっていないことを知らされることになる。
一ヶ月もすれば町の要所要所に何があるのかは把握できるものだ。
時間潰しの推理小説でも買おうと、町の書店に立ち寄った時だ。町の規模に合った狭い店内を回遊していると、視界の端が、ある週刊誌の禍々しい見出しを捉えた。
『若者を蝕む新型ドラッグ!その目的は「pixel"i"プライス」のスコア操作か!?』
私は乱暴にそいつを掴み取り、該当の記事を探す。そこには、佐藤がやっていた手口がより過激になったもの、そして感情を殺し価格を操作する薬物――「ナイスバリュードラッグ」の存在が書かれていた。
更なる詳細な情報を確認するため、急いで民宿に戻り、私は意を決してスマートフォンの電源を入れ、ニュースサイトを開いた。そこには、私が目を背けていた世界の現実が、これでもかと言わんばかりに溢れていた。
大手ニュース専門チャンネルは、大々的な連載特集を組んでいた。
『第4回:社会を揺るがすバリュードラッグ汚染』
画面の中では、キャスターが深刻な面持ちで語っている。
「…これらの薬物は、SNSなどを通じて瞬く間に若者たちの間に拡散しました。専門家によれば、その供給源には海外の麻薬カルテルが関与しているとの情報もあり、警察当局は警戒を強めています…」
番組に招かれた国際ジャーナリストが、さらに衝撃的な事実を付け加えた。
「問題は、さらに深刻です。以前からお伝えしている通り、アメリカの一部の都市では、軽犯罪の罰金をpixel"i"プライス系のサービスで決定する制度が試験導入されていたのはご存じかと思います。本来は、違反者の反省度合いなどを汲み取り、より公平な司法を実現するための試みでした。しかし、これが完全に裏目に出ています」
画面が切り替わり、現地の映像が流れる。
「現地の報告によりますと、窃盗や薬物所持といった罪で捕まった違反者が、バリュードラッグを使用。デバイスの前で意図的に『深い反省』や『心の平穏』といった脳の状態を作り出し、罰金を不当に低くさせるケースが続出しているというのです。これにより、軽犯罪のリスクが事実上無きに等しくなり、ドラッグの使用者、ひいては販売組織までもが、司法の網を容易にくぐり抜けてしまっています。現地の警察関係者は『これでは法律が機能しない』と悲鳴を上げており、社会の根幹である司法制度そのものが麻痺しかねない、危機的な状況です」
法までもが、このシステムの前では無力化されている。
私の全身から、血の気が引いていくのがわかった。
番組では、日本人中毒者のインタビュー映像が流れた。腕には無数の注射痕を隠したであろう大きめの絆創膏。虚ろな目を隠したであろうモザイクの彼の顔がカメラに向かって呟く。
「生まれた時から…動画も音楽も実質タダになったし…最初はただのゲームだった。スコアをハックして、物が手に入るのも変だとは思わなかった…。でも、いつの間にか、これなしじゃいられなくなった。デバイスが示す“偽物の満足”がないと、もう生活ができないんだ。何も感じないのに…」
私も加担したシステムは、ただ社会を混乱させたというには言葉が足りない。それは、人間の心に新たな「需要」を生み出し、巨大なブラックマーケットを創り出し、あまつさえ法の支配すらも脅かす、本物の怪物だった。
私は、スマートフォンの画面を閉じた。民宿の窓から見える海は、今日も同じように穏やかで、静かだった。
だが、私の心は、これまでにないほどの激しい嵐に見舞われていた。
逃げることはできない。
目を逸らし、亀裂から目を背けても、コップの中にはまだ水が残っているのだから。
休暇は、もう終わりだ。
私は部屋に戻り、帰りの切符を予約した。顔を上げると、窓ガラスに映る自分の顔は、かつてないほどに険しく、そして硬く決意に満ちていた。その窓ガラスに、小さな亀裂一つ走っていないことに、心から安心している自分がいた。
これからの行動に安堵も、矛盾も、もうそこにはない。ただ、自らが果たさなければならない責任と、これから為すべきことが何かがわからなくてもあるのだ。
戻ればまずはそれを考えなければならないのだった
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