7.私はただ、最善を尽くした。
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
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あのウェブ会議から一ヶ月という時間は、巨大な組織の歯車の中では瞬きほどの時間に過ぎなかった。クライアント『擬音』からの核弾頭のような提案に対し、私が理性で感情を踏み潰して稼いだはずの時間は、市場という名の巨大な熱狂の前では、ないに等しいものでしかなかった。
あれから私と有本氏の約束通り、弊社と『擬音』はそれぞれ市場調査を開始した。私は心のどこかで、この調査がプロジェクトの過熱を冷ます冷静なデータをもたらしてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。システムがもたらす倫理的な懸念や、人の心に土足で踏み入る技術への潜在的な抵抗感。そういったものが文章や数字として現れることを願っていた。
だが、現実は無慈悲だ。
一ヶ月後、両社から提出された分厚いレポートの結論は、驚くほど一致していた。「導入に極めて前向きな市場環境。競合他社に先んじるため、可及的速やかなプロジェクト開始を推奨する」と記載されており、表紙に押された“承認”の赤い文字が、まるで悪魔との契約書であるかのような印象を与えた。
その結論を目にした瞬間、私の胸を占めたのは絶望ではなかった。奇妙なことに、そこには確かな安堵があった。安堵……
これは私ではなく、組織が決定したことだ。この巨大な流れに、もう抗う必要はないのだ。私が声を大にして反対したところで、このレポートの前では一蹴されていただろう。無駄な抵抗をして社内で孤立し、キャリアを棒に振るという最悪の未来の一つを、とりあえずは回避できた。責任という重荷は、いつの間にか市場という名の誰かに肩代わりされもう一つの最悪な未来もまた回避できた。決定は下されたのだ。私によってではなく、世界によって。
しかし、その安堵は表面的なものだ。違和感は苦く遅効性の毒のように、徐々に私の内面を蝕み始めた。
安堵と自己嫌悪が同時に胸を満たす。これは、私がこれからずっと抱え続けるしかない矛盾だ。決定を下すことから逃げた自分に安堵し、同時に、これから始まるであろう何かの片棒を担ぐことになった自分を、いずれ軽蔑する日が来るのだろうか
この消しようのない違和感を胸に、私は正式な承認会議のモニター画面を見つめていた。
会議はもはや形式的なセレモニーに過ぎなかった。私の隣には我が社の営業部長も同席し、終始得意げな笑みを浮かべていた。モニターの向こう側で、同じような笑みを浮かべた有本氏は、一度だけ私に目を向け、静かに頷いてみせた。私が、自らの矛盾に今さら目を向けたところで、何の意味があるというのだ。
それから3ヶ月、私の日常はシステム開発の渦に飲み込まれていった。皮肉なことに、私はこのプロジェクトの責任者の一人として、誰よりも熱心に仕事に打ち込まざるを得なかった。後任の女性社員や技術部門のメンバーは優秀で、彼らの純粋な探究心に応えるためには、私自身が中途半半端な態度でいることは許されなかった。
深夜のオフィスで、私はモニターに映るコードの列を睨みながら、仕様書の細部を詰めていく。それは純粋な知的作業であり、物を構築していく確かな手応えはある。この没頭している時間だけは、胸の内の矛盾から解放される気さえした。だが、ふとした瞬間に我に返ると、自分が作っているものが、知的なものとは程遠い、何か得体の知れないものであるように思えた。
後輩だった佐藤を何かに変えてしまった仕組みを、私も作っている。社会の構築に、私は一般の人よりは深く関与している方だろう。自ら決断したわけでは確かにないが、今、この手は汚し始めているのではないか……。
毒は回り始め、その考えが毎日頭を駆け巡る中、深夜作業で行き詰まったある晩のことだった。
その夜も、オフィスには私一人だった。モニターの光だけが、静まり返ったフロアにぼんやりと浮かび上がっている。システムの実装に向けた最終調整の作業は、複雑怪奇なパズルのようで、私の思考は完全に行き詰まっていた。
「……少し、休憩するか」
誰に言うでもなく呟き、私は椅子に深くもたれかかった。頭を空にしたくて、何の気なしにポケットからスマートフォンを取り出す。指が習慣的にSNSのアプリを開き、私は意味もなくタイムラインをスクロールし始めた。友人たちの楽しげな日常、ターゲティングされた広告、どうでもいいニュース。その情報の奔流に意識を漂わせることで、仕事の重圧からほんの少しだけ逃避しようとしていた。
その時だった。ある動画が、私の指を不意に止めさせた。
そこに映っていたのは、見知らぬ若者の顔のアップだった。彼は無表情のまま、ただじっとこちらを見つめている。その瞳は何も訴えかけてこない。まるで、魂がそこにはないかのように。
動画の下には、短いテキストが添えられていた。
『今日の俺のヴォイド、結構ナイスじゃない? スコア0.012』
テキストの横には、見慣れたUIのスクリーンショット。pixel"i"プライスのスコア表示画面だ。限りなくゼロに近い数字が、まるで達成困難な実績を解除した勲章のように、誇らしげに表示されている。
そして、その投稿に付けられたハッシュタグは――「#ナイスヴォイド・チャレンジ」。
スマートフォンの冷たい光の中で、私は息を呑んだ。
その発見は、誰かとの共有も、雑談の中のワンシーンでもない。行き詰まった深夜のオフィスで、自らが作り上げるシステムの重圧から逃れるために開いた画面の中に、そのシステムが生み出した最も醜悪な物の怪を、私はたった一人で見つけてしまったのだ。
それが、私があの不気味なムーブメントを初めて認識した瞬間だった。
感情を殺し、無表情でいることが「クール」だとされた。SNSには、死んだ魚のような目をしたインフルエンサーたちが徐々に姿を現し、「ナイス」な虚無を達成するためのライフスタイルを発信し始めていた。
「あなたも究極のヴォイドチャレンジに挑戦し人生を変えませんか?『感情コントロール完全マニュアル』!?」
のような、高額で怪しい情報商材が、スマートフォンの広告で度々目にするようになったのはそれほど時間が経った頃ではない。しかし、結果が伴わないためか、大きな社会問題として扱われることはないようだ。あるいは、私が考えすぎなだけなのだろうか…私はそう片付けことしたのだった。
季節が春になり、私たちが開発したシステムが、『擬音』の全店舗及びネットスーパーに導入される日が来た。
私は、オープン初日に、都心にある旗艦店の一つを訪れた。真新しいセルフレジには、私たちが設計した認証デバイスが取り付けられている。客がデバイスに耳をかざすと、ディスプレイにパーソナライズされた価格が提示される。ある者は喜び、ある者は不満げな顔をする。私が作り上げたシステムが、今、まさに人々の感情をリアルタイムで金銭価値に変換している。その光景は、成功の証でありながら、地獄の入り口のようにも見えた。この流れを作ったのは、紛れもなく私自身だ。成功の証のはずなのに、そこには達成感などまったくと言っていいほど存在しなかった。
なんだか気の晴れない気持ちを切り替えようとフードコートで軽く飲み物でも飲もうとした時のことだ、私は異様な光景に足を止めた。
カフェのテラス席に座る高校生のカップル。そんなありふれた普通の光景に私の目は引きつけられた。彼らは向かい合っているのに、二人の間に会話らしきものがない。
女子高生は、見た目が完璧な、宝石のように飾り付けられたフルーツタルトのケーキセットを前にしていた。しかし彼女はそれを、味わう様子はなく、ただフォークで切り分けては口に運ぶ、単調とでも言うべき作業を繰り返している。その瞳に、甘いものを味わう喜びの色は一切ない。
男子高生は、分厚いハンバーグが二枚も乗った、山のようなロコモコ丼に挑んでいた。彼もまた、それを味わうというより、ただ胃に詰め込むという表現が正しい。車にでも給油するような、淡泊な動作だった。
彼らの関心は、食べ物でも、目の前のデートの相手でもなく、恐らくはテーブルの隅に置かれたスマートフォンの画面――リアルタイムで変動する自らのスコアだけなのだろう。
あれはきっと、「ナイスヴォイド・チャレンジ」の実践だ。甘美なケーキや大量のハンバーグといった、強い感情的・生理的反応を引き起こすはずの食事を前に、いかに感情を殺し、スコアを低く抑えるか。その歪んだゲームに、彼らは興じている様子だ。
具合が悪くなり、店の外へと急いで向かう。
しかし、横断歩道を渡る若者の集団もまた、それらのデバイスと接している者たちだけは、感情の色が抜け落ちているように見えた。
「ナイスヴォイド・チャレンジ」は、もはや界隈の遊びではなかった。それは社会に蔓延し始めた新しい病だった。そして、私たちが実装したシステムが、その何かの病の拡大をさらに加速させることはもはや間違いなかった。
人は今、熱狂の果てに、虚無を求めている。そして、その虚無でさえもが「ナイス」という評価の対象になる。
あの時感じた安堵の代償が、今、目の前で現実になっている。私が加担したプロジェクトは、世界に新たな混乱の種が芽吹き始めている。私は、これからのことを何か思うと眩暈がしたのだった。
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