6.誰しもが変革の中では選択を迫られる。
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
一週間で3000~4000文字前後で毎週金曜日に随時更新する予定となります。
しばし、お付き合いいただければ幸いです。
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「――pixel"i"プライス系サービスをレジシステムやネットスーパー等でこれから利用導入を検討していただくことは可能でしょうか」
営業企画本部の有本と名乗った男の言葉は、まるで静かな水面に投げ込まれた石のように、ウェブ会議の空気に波紋を広げた。その声は穏やかで、あくまで一つの「質問」という体裁を保ってはいたが、その内容は私にとって轟音にも等しい衝撃だった。
一瞬、思考が停止する。モニターの向こう側で表情一つ変えずにこちらを見つめる有本の顔と、隣に座るシステム本部の部長代理の姿が、やけにゆっくりと目に映る。彼らの背後にある無機質な白い会議室の壁が、現実感を余計に歪ませているようだった。
可能か、どうか……。
言葉が鼓膜を揺らすより先に、脳裏に鮮明な光景がフラッシュバックしていた。
モデルルームのように整頓されていたはずの後輩、佐藤の部屋。その秩序を破壊するように積み上げられた、無数の段ボール箱の山。光を失った瞳で、自らの「ビジネス」を自慢げに語っていた彼の虚ろな声。私には雑音にしか聞こえなかった。佐藤と有本は、同質ではない……。だが、どこか二人は同質だ。
――自分たちはまた一つ、便利さの名のもとに魂を売り渡していくのだろうか……。
ふいに浮かんだこの言葉は、核心であり、本質だろうか?
あの日、彼の部屋を出た時に確信した言葉が、心の中で警鐘のように鳴り響く。このシステムが何をもたらすのか、私たちは実際はまだ何も知らないのだ。人の価値観を歪め、日常の秩序を破壊し、空っぽかもしれない熱狂の先には、虚無が待っている可能性だってある。
背中に冷たい汗が一条、伝っていくのを感じた。心臓が氷の手で掴まれたように冷たく収縮し、呼吸は静かに浅くなる。ここでの判断は、確実に社会に影響を及ぼす。賞賛されることもあれば、猛烈な非難を浴びる可能性だってある。
クライアントからの直接的な要望。それも、これまで顔を見せなかった本部の上層部からの。これを無下に断れば、このプロジェクト自体が頓挫するかもしれない。いや、それだけでは済まないだろう。会社はすでに、このビジネスを次の収益の柱にしようと専門チームまで立ち上げている。その流れに逆らうことは、組織人としての死を意味するかもしれない。あるいは、社会にとっては不用意に混乱を増やす片棒を担ぐ立役者になるかもしれない。
どちらを選ぶにせよ、私個人が負うには責任の許容量を遥かに超えている。今後、責任の所在を求められる可能性があるものに、私の個人名が記載される事態は避けたい。
モニターに映る営業部長の顔を盗み見る。彼はこちらの動向に興味深そうに笑みを浮かべながら頷いている。興奮まじりの鼻息だって聞こえてきそうだった。これは行けるぞ、と。彼の顔にはそう書いてあった。
『僕にその手を汚せというのか?』
子供の頃に夢中で、やりこんだゲームの言葉が浮かんだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。コンマ数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。私は震えそうになる声を必死で抑えつけ、ゆっくりと口を開いた。
「……有本様。貴重なご提案、誠にありがとうございます」
まずはビジネスパーソンとしての仮面を被り、定型句で時間と思考の猶予を稼ぐ。
「おっしゃるサービスが、今後の小売業界において非常に重要な鍵となる可能性を秘めていること、私個人としても強く感じております。ただ…」
言葉を選ぶ。慎重にだ。ここで感情が見えるのは終わりだ。あくまで冷静に、論理的に。今までのように……。
「非常に革新的なシステムであるからこそ、その導入に関しましては、技術的な実現可能性の精査はもちろんのこと、既存のシステムとの連携、セキュリティ、そして何よりもお客様の体験に与える影響など、多角的に検討させていただくべき課題が多数あるかと存じます」
誰も反論できない正論を並べる。これは抵抗ではない。あくまで、プロジェクトを成功させるための「確認」なのだと、自分にも、会議の参加者全員にも言い聞かせるように。
「弊社としましても、その分野の専門チームを立ち上げたばかりという状況もございます。恐らく技術的には実装可能でしょう。しかしながら、先ほどの繰り返しにはなりますが、これは技術だけの話ではないかと存じます。だからこそ、一度社内に持ち帰らせていただきたいと思います。技術部門はもちろんですが、専門チームと今後の市場に与える影響も踏まえて連携を取り、実現に向けたプランを精査するほうがよろしいかと認識しております。改めて弊社からご回答させていただく、という形で進めさせていただけますでしょうか」
言った。ボールを、相手のコートから自分のコートへ、そして組織に自然にパスを出し、ひとまず引き取った。自らは即断も即決もしない。ただ、検討するという約束だけを残して。担当として、組織人として、そして何より人間としての最後は理性で感情を踏み潰す、ギリギリの返答だった。
有本は私の言葉を黙って聞いていたが、その表情からは本心は読み取れない。彼はわずかに頷くと、「承知しました。私たちでも市場への影響を調査し、両社で突き合わせる方向で動ければと思います。建設的なご意見、ありがとうございます。期待しております」とだけ静かに言った。
その後、いくつかの事務的な確認事項を交わし、会議は滞りなく終了した。
「本日はありがとうございました」
その言葉と共に、画面上のアイコンが一つ、また一つと消えていく。
やがて、自分のPCモニターに映るのは、静まり返った自席の背景だけになった。私はマウスを握りしめたまま、深く、長い溜息を吐き出した。
ようやく、まともな空気を吸って呼吸ができるような気がした。
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