10.私の次の生活を探して
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
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終末時計が残り15秒を指した世界にいる。しかし、私の心は不思議なほど静かだった。休暇先で感じた嵐のような激情は過ぎ去り、今はただ、為すべきことへの、冷徹なほどの静かな覚悟があるだけだった。
私は自宅のキッチンで、青年から受け取ったマンデリンのパッケージを開封した。豆をミルに入れ、手で挽いていく。ゴリゴリという硬質な感触と、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。それは、私が知っている大好きなコーヒーそのものだった。
湯を注ぎ、蒸らし、ゆっくりと淹れていく。その一杯のコーヒーを飲むという行為に、私はすべての思考を集中させた。
口に含んだコーヒーの味は、私の好きな味がした。民宿で飲んだ時のような感動的な「美味しさ」も、休暇前に感じた「味のしない液体」という感覚もない。それは、良くも悪くも、ただの、私の好きなマンデリンコーヒーの味だった。
そして、私はそのことについて考えた。
例えばこのコーヒーを。
例えばあの旅先で、何度も美しいと思った夕陽を。
"pixel"i"プライス"というシステムは、これらに刹那的な「価値」はつけても、その背景にある「豊かさ」や「彩り」まで観測できるのだろうか?
しばらくして、私は壮大なパラドックスの只中にいるのだと気づいた。
私たちは、「合理的で完璧な答えがあれば、最大の幸福と全員の幸せを同時に実現できる」と、そう信じていなかっただろうか。ところが、デバイスがもたらした未来とは、個人の幸福を最大化しようとした結果、その歪んだ価値観が社会全体へと伝播し、ある意味では「全体の幸福」が実現してしまった世界だと言える。
それは、合理性を突き詰めた先にある、極めて不合理な結末。その正体は「虚無」だ。
幸福を最大化しようとした社会は、感情を演じるだけの虚無に陥った。個人の幸福を最大化しようとした人間は、薬物に溺れる虚無の存在となった。「全体の幸福」も「個人の幸福」も、その最大化の果てにあったのは、等しく虚無だったのだ。
幸福のジレンマ――とでも呼べばいいのだろうか。幸福になろうとすればするほど、虚無が訪れる。
だからといって、悲しみや苦しみは、もちろん遭遇しないに越したことはない。
「このコーヒーを、あの夕陽を見ながら味わうことができたら…どんなに幸福か…」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
その時、私は思い至った。この二つの幸福の違いはなんだろうか。どちらも幸福には違いないが、後者には、虚無に繋がる道がないことだけは確信できる。
物差しでも、天秤でも、座標軸でもない……。私はぶつぶつと色々な言葉を試してみたが、この感覚を的確に示す言葉が、まだこの世の中に生まれていないのだと悟った。
「そうか…ないのなら、作るしかない。並行する感覚で、別の事象をそれぞれに認識する。そうだ、私たちは幸せや悲しみを、常に並行して認識している…。『パラレルセンス(並行感覚判断)』とでも、仮に名付けてみようか…」
その言葉を口にした瞬間、世界の輪郭が、少しだけクリアになった気がした。
そもそも、なぜデバイスは登場したのか。それは、物事を定量化し測定可能にすることで、便利な共通ルールを作るためだった。労働時間、収入、仕事の出来高。それらは社会に必要な道具だ。だが、いつしか道具で測ることが絶対の基準となり、すべてを支配してしまった。
「……道具は、道具でしかないというのに。おかしな話だ」
問題は、道具そのものではなかったのかもしれない。幸福や価値という、あまりに複雑で厄介な問いに対し、"pixel"i"プライス"が提示した「合理的な答え」は、抗いがたいほどに魅力的だった。人々はその明快さに飛びつき、定量的に測るという安易な道を選んだ。そして、『別の道具』を自ら作り出すという、より困難で創造的な努力を、いとも容易く放棄してしまったのだ。
『パラレルセンス』とは、天から与えられたものではない。それは、本来、私たちが時間をかけてでも、対話を重ね、試行錯誤を繰り返しながら育て上げるべきだった、ただの忘れていた英知なのだ。
私は、もう一度コーヒーをカップに注ぎ、ベランダに出た。
東の空が白み始め、街の向こうが暁の色に染まっている。あの旅先で見た夕陽とは違う美しさが、ここにもある。
この世界の、新しい一日が始まる。
考えてみれば、僕らは原始時代からずっと便利な道具を探し、いつだって次の豊かさを創造してきた。電子機器や情報にありふれたこの世界でも、その本質は何も変わらないはずだ。
「まだ終末時計だって戻せるさ。次の豊かさを探しにいこうか」
今も、旅人には変わりない。
「……一緒に旅に出る人がいいな……」
私はそう呟きながら、新しい一日が運んでくるであろう、次の希望や豊かさについて考えていた。
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