9.私の生活3
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
一週間で3000~4000文字前後で毎週金曜日に随時更新する予定となります。
しばし、お付き合いいただければ幸いです。
SNSは以下のアカウントになります。
https://bsky.app/profile/hitoriaruki.bsky.social
感想等をお待ちしております。
久しぶりに降り立った地元の駅は、記憶にある姿と何も変わらなかった。帰りの電車の中から見えた景色は、都会に近づくにつれて、民宿の周りにあった穏やかな自然が嘘だったかのように、秩序だった灰色の建造物へと変わっていった。決意を固めて戻ってきたはずなのに、車窓に映る自分の顔はまだどこか頼りない。休暇は終わった。平穏な時間は終わり、これから私は、自らが加担したこの歪んだ現実と向き合わなければならないのだ。
自宅へ向かう前に、私は駅に隣接する『擬音』の大型店舗に立ち寄った。冷蔵庫は空っぽだろうし、何よりもまず、あの民宿で思い出しかけていた日常を取り戻すための儀式が必要だった。自分の金で、自分の好きなものを買う。その当たり前の行為が、今の私には現実へと帰る最初の一歩のように思えた。
店内に足を踏み入れると、入り口付近の食料品売り場は、いつも通りの賑わいを見せていた。野菜を品定めする主婦、惣菜をカゴに入れるサラリーマン。その光景に、私は一瞬、休暇先で見たニュースはすべて悪夢だったのではないかと錯覚しそうになる。だが、その淡い期待は、店の奥に進むにつれて無残に打ち砕かれていった。
異様だった。
上階へと続くエスカレーターに、誰も近寄ろうとしない。フロアの案内図には「家電・宝飾品類」と書かれているが、そこから漂ってくるのは、活気ではなく、空虚な静寂だけだった。
その先に本来あるべき姿が失われていることを予感しながらも、私は現実から目を背けるわけにはいかないという気持ちに駆り立てられた。
家電製品が並ぶフロアは、まるで集団窃盗にでも遭ったかのように、商品棚が空になっていた。最新モデルのスマートフォンも、高性能なオーディオ機器も、どこにもない。ただ、空の展示台と、無残に切り離されたセキュリティタグだけが散乱している。物理的な盗難を防ぐためのタグが、デジタルな略奪の前では何の意味もなさない、過去の遺物のように見えた。同様に、ブランド物のバッグや宝石を用いたアクセサリー類を扱う一角も、ほとんどの商品が姿を消していた。
ゴーストタウンのように静まり返ったそのエリアでは、一人、二人いるアルバイト店員たちはつまらそうに置物のように立ち、現場の責任者と思しき人物は、今後の入荷や対策を電話越しの相手に必死な形相で相談しているようだった。それを他の客たちは遠巻きに、異様な光景を楽しむようにスマートフォンで撮影しているのだ。
私は、その光景の意味を即座に理解した。これは品切れではない。ニュースで見た「バリュードラッグ」による、静かな略奪の跡だ。私が関わったシステムが、今、この場所で、物理的な崩壊を引き起こしている。食料品は問題なく買える。なぜなら、日常を支えるそれらの品々は、ハック行為の対象になるほどの高額な「価値」を持たないものがほとんどだからだ。怪物に食い荒らされたのは、人々がかつて憧れ、価値を認めていた、豊かさの象徴だけだった。
吐き気を覚えながら、私はエスカレーターを降り、1階の食料品売り場へと戻った。ひとまず必要な品々をバスケットに集め、コーヒー豆のコーナーへ向かう。その途中、高級な酒が並ぶ棚もまた、壊滅的な状況にあることに気がついた。ある種の願いを込めながら棚に目をやると、見慣れたマンデリンの赤いパッケージが、幸いにもまだいくつか残っていた。値札には、『通常価格 1198円』と表示されている。
私がその一つに手を伸ばそうとした、その時だった。
「それ、買うんすか?」
すぐそばから、極めて抑揚の少ない、平坦な声がかけられた。見ると、私より一回り以上は若いであろう青年が、同じコーヒー豆のパッケージを雑に片手でつまむように持ち、こちらを見ていた。流行の服を着ているが、その瞳はひどく虚ろだった。あのカフェで見た高校生たちよりも、さらに何かの感情が抜け落ちているように見える。
私は聞こえないふりをしてそこを立ち去ろうとしたが、青年はそれを制するように、持っていたパッケージを私の前に突き出した。
「これ、あげるよ」
「……え?」
「さっき1円で買ったけど、俺、コーヒーの味とか分かんないんで」
その言葉は、何の感情も乗っていない、ただの事実報告だった。彼にとって、このマンデリンコーヒーは「飲むもの」ではない。ただの「1円で手に入れたトロフィー」なのだ。その価値を味わうという発想自体が、彼の中には存在しない。その行為に、悪意はない。ただ、圧倒的な無関心があるだけだ。それが、何よりも恐ろしかった。
私は、差し出されたパッケージを、複雑な心境で受け取った。指先に伝わる豆の感触が、やけに生々しい。私は、彼から本来の小売価格でこれを買い取ることで、せめてもの抵抗として、このコーヒーの価値を守ろうとした。だが、システムはそれをあざ笑うかのように、価値そのものを破壊し尽くし、その残骸を、価値を理解できない世代の手を通じて、私に無償で手渡したのだ。
「いらないっすよ。遊んでただけなんで」
青年は「じゃ」とだけ言うと、興味を失ったように去っていった。私はその場にしばらく立ち尽くし、手の中にあるコーヒー豆を見つめていた。それは、お気に入りのコーヒー豆であると同時に、私が作り上げた怪物の、おぞましい子孫のようにも思えた。
レジへ向かうと、夕方のこの時間にしては珍しいほど閑散としていた。ほとんどの客が、デバイス決済で少しでも安値で手に入れようとしているのだろう。私は当然のように、通常の支払い方法を選んだ。
会計を終えて店を出ていく途中、コーヒーをくれた青年の姿が目に入った。若い女性と腕を組み、繁華街の方へでも向かうのだろうか。楽しげに見えるはずの光景なのに、私の胸には一つの問いが浮かんだ。彼らは一体、これから何を楽しむことができるのだろうか、と。
私は『擬音』を出て、夕暮れの道を自宅へと再び向かい始める。手の中にある、1円の価値になったコーヒー豆の袋が、ずしりと重い。それは、これから私が向き合わなければならない、責任の重さそのものだった。
この一袋のコーヒー豆が、私の手元に届くまで、どれだけの人の手が関わっているのだろう。遠い国の農園で豆を育てた人、それを焙煎した職人、そして、この店まで運んできた人々。その連綿と続く労働と技術の結晶が、「遊び」という一言のもとに、たった1円の価値に貶められた。私が作り上げたシステムは、経済だけでなく、人の営みそのものへの敬意を破壊しているのだ。
何を思い、何を考えればいいのかわからない状況のなかで、それでも無力感に抗おうと、私は自宅のTVをつけた。
ニュース番組のアナウンサーが、冷徹な声で伝えていた。
『……本日、原子力科学者会報は、人類滅亡までの時間を、これまでの60秒から残り15秒へと進めたと発表しました』
曰く、pixel"i"プライスの一連の騒動を受け止めてのことだと言う。
いずれにせよ終末時計が、また進んだ。
小説を読んで面白いと思った方は評価していただければ幸いです。
☆やブックマークをいただくことで作家としては幅広く活動を増やすことができます。
アカウント登録等でお時間いただくこと、ご助力いただくことをお詫び申し上げます。
皆さんの小さなご協力が大きな支えになります。
よろしくお願いいたします。m(__)m
SNSは以下のアカウントになります。
https://bsky.app/profile/hitoriaruki.bsky.social
感想等をお待ちしております。