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「ん」「ちゅ」  作者: 春待ち木陰
3/5

03/05

 

 この日、久し振りにスズとお昼を一緒にした優花は、持ってきていたパンの半分も食べられずに残してしまった。


「やっぱりおうちのお弁当の方が良かった?」


 上目遣いも真っ直ぐに優花の目の奥を覗き込んでくるスズに、


「そうかも。ちょっと食べ慣れなかったかな」


 優花はこっそりと小さな嘘をついた。笑顔を作った。


 放課後、


「優花ちゃん」


 帰ろうとしていた優花はスズに声を掛けられた。と同時に腕を取られる。


 まるで付き合いたての恋人みたいにスズは優花の左腕をその胸に抱いていた。


「なあに? どうかした?」


 困惑を上手に隠して優花は尋ねる。


 スズは「んんん」と喉を鳴らしながら優花の肩におでこを擦り付けてきていた。


 猫みたい。優花は思った。ふふふと漏らす。


 富野スズは不思議な女の子だった。


 掴みどころが無いというのか、日によって印象がころころと変わる。


 だが気分屋というわけでもない。気難しいとも違う。


 彼女は他人に好意的だった。非常に。悪意や悪気や意地悪な気持ちを持って他人に接している姿を優花は見た事がなかった。


 一言で言えば人懐っこいのだ。


 ただ人懐っこ過ぎてもいた。


 彼女は誰に対しても一歩や半歩、踏み込んでいた。


 優花も今、まさに踏み込まれている。


 親兄弟でもない。恋人同士でもない。親友ですらもない。ただの友達なのに。


 相手を「その他大勢」の中の一人とは見ておらず、いつも真剣に向き合っていた。


 だから。彼女は幾つもの顔を持っていた。家族に見せる顔と友達に見せる顔が違うように、恋人に見せる顔と友達に見せる顔が違うように富野スズは優花に見せる顔と京子に見せる顔が違っていた。


 優花と京子だけじゃない。仲良くしているクラスメイトの女子18人と同じ数の顔をスズは持っていた。


 こちらを向いているときの正面、あちらを向いているときの横顔、向こうを向いているときの後ろ姿がそれぞれ違っていた。


 それらのどれが富野スズの本当の顔なのか優花には分からない。


 どの顔も本当の富野スズで、どの顔も本当の富野スズではないのかもしれない。


 富野スズは「誰の正面に立っているか」で顔が変わる。


 クラスの女子達は皆、そんな事は分かっていながらも、数多くある富野スズの顔の中でその「正面」こそが本当の富野スズだと思って彼女を可愛がっていた。


 だって。それはとても心地の良い――「私」専用に拵えられた顔だから。


 でもそんなスズの正面の顔を見られるのは同じクラスメイトでも女子だけだった。


 殊更に男子が苦手というわけではなさそうだが優花が感じるにスズは必要な分だけしか男子と接していなかった。恋愛事を面倒事とでも捉えているのだろうか。


 好感度しかないスズの正面の顔は見た事が無いであろう川田日向は、彼女の横顔を見て、彼女の事を好きになったのだろうか。


 だとしたら「凄い」と優花は思う。


 自分には向けられていない顔を見て、他の誰かの事を見ている目を見て、好きだと思えるだなんて。


 打算の無い純粋な恋だ。


 何度でも「凄い」と優花は思う。


 そんな恋に落ちた川田日向も、無自覚に他人を恋に落としてしまったスズも。


「凄い」


 きっと自分にはそんな純粋な恋は出来ないと思う。


 頭の良い桧山優花はもっと計算をしてしまう。


 打算的に人を好きになり、考えられた優花の振る舞いを見て誰かが恋に落ちる。


 またそれは恋に限った話ではなかった。


 優花が思うに。自分も含めて、スズに正面の顔を向けられているクラスの女子達がスズの事を好きになるのは道理だった。スズを「可愛い」と思って当たり前だった。


 何故ならばスズが「私」の事を好きなのだから。


 富野スズの印象は小さな子供だった。もしくは小動物だ。


 小さな子供でも動物でも何でも自分に懐いてくれるものは可愛いに決まっている。


 無責任に甘やかしたくなってしまうものだ。


 私達は皆、自分に都合良く富野スズを可愛がっていた。


 ペットを飼った事がない優花が思うに。なんだかペットに対する飼い主の気持ちと似ている気がしてしまっていた。


 物言えぬ犬猫の行動を飼い主の勝手に解釈してしまう気持ちと似ている気がした。


 お腹が空いているから食事を催促しているのではなくて、落ち込んでいる飼い主を慰めようと擦り寄ってきているのだ――みたいな。都合の良い解釈だ。


 本当の本当は違うのだろうと分かっていつつも気にしない。真実は求めない。


 だって。そう思う事で癒されるから。それで良いのだ。その為の愛玩動物だ。


 クラスの女子達は皆、自分だけのペットが如く富野スズを扱っていた。


 皆、彼女を自分と対等の人間扱いしていないからこそ彼女からの「ん」に「ちゅ」と応えていたのかもしれない。気軽に。簡単に。何も考えずに。


 それこそペットの犬や猫とキスをするみたいな感覚で。


 自覚の有無はそれぞれあろうが私達は皆、ズルいから。純粋な川田日向と、そんな彼に純粋な想いを寄せられた富野スズを、優花はとても眩しく感じられてしまった。


「優花ちゃん」


 至近距離から名前を呼ばれる。甘い香りが漂った。


「ん」とスズは目を閉じる。


 唇を求めているのは彼女だったが、私の為に求めてくれているのだと今の優花には分かってしまっていた。


 彼女は人間だ。犬や猫ならば「落ち込んでいる飼い主を慰めようと擦り寄ってきている」ように見えても真実は「お腹が空いているから食事を催促している」だけかもしれないが、目の前の人間に対してとても敏感な彼女は「冗談やお遊びで唇を求めている」ように見えてその実は「心揺れている私の背筋をお姉さん然と伸ばさせてくれようとしている」のだと感じられる。


 今の私を「いつもの私」に――「私が望む私」に戻してくれようとしているのだと感じられる。


 富野スズと交わすキスの本質は、彼女が求めるものではなくて私の心が望んだものだった。


 全ては優花の勘違いかもしれない。でも。それを自覚してしまったらもう駄目だ。スズからの「ん」に「ちゅ」と応える事が途端に恥ずかしくなってしまった。


 猛烈に照れてしまう。


 この日、この時、桧山優花は初めて、スズの「ん」に対してぷいと顔を背けた。


「ごめんね」


 と小さく呟いた優花の顔は真っ赤に染められていた。




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