4:誤解
静芳男装して家出中。
芳悠々自適な次男坊。
宇航家督争いに巻き込まれた苦労人。
突然降ってきた声の主を見上げ、芳は快く頷いた。旅の途中です、という服装をした宇航は真剣な表情をしていて、別段悪い印象を与えなかったのが大きい。
自分の机の上には空の皿、相手の机には手の付けられていない食事がある。ならば自分が動く方が早い、芳は宇航を促し席を移動した。
「私で良ければお付き合いしましょう。寂しいのはいけないからね」
柔らかい声は男としては高く、女としては低いと言える。身のこなしは軽く、着物の生地が上等であるのを確認した宇航の確信は色を濃くしていく。
「感謝する。私は周 宇航といいます」
「私は……芳という」
芳は大芳と名乗ろうか迷い、芳だけにした。口にて、静芳とまた会える確証がないことを寂しく思った。
いつまで滞在するかは聞かなかった、もう次の街に移動した可能性もある。そうだ、帰る途中で宿に行ってみようか。宿の主も親しくしている人だ、まだいるのか聞くだけでもいい、いないなら……それまでだ。
「芳……芳というのですか、そうか……」
宇航が何度も深く頷き、名前を確かめていることを珍しく深く考え込んでいた芳は知らずにいた。
来るもの拒まず去るもの追わず、それで良かったはずなのに。当てはまらないのは家族だけ、それがずっと続くと信じて疑わなかったのに。
しばらくの間、二人は言葉を交わし合った。この街について、隣の街について、治安や流通について、ではなく。
宇航が矢継ぎ早に質問を投げかけ、芳が当たり障りのない返答をする。誰とでもすぐ仲良くなれる常連客、近隣の情報を知りたい旅人、店では見慣れた光景だ。常連客が微妙な表情を浮かべていなければ。
店主は芳を助けるために愛娘を呼び、一杯のお茶を用意した。食べ終わった宇航にお茶を出し、飲んでいる間に芳を帰らせる作戦だった。
指令を受けた琳はお茶を持って駆けつけた。宇航の前にお茶を置き、芳には満面の笑みで言う。
「またきてください、ね!」
天女の如き笑顔の裏、見え隠れする店主の気遣い。正しく受け取った芳は代金を小さな手に握らせ、宇航に挨拶を残して立ち去ろうとする。
「私はこの辺で失礼しよう。散歩をしてくる、と出てきたものだから、あまり遅くなると家の者が心配するのでね」
「あっ……ああ、そうですか。家の者……それなら。では、またの機会に」
にっこりと笑い、手を振って店を出る。久しぶりに、寄り道もせず真っ直ぐ家に帰りたいと思う芳だった。
疲れてしまった原因は、街について知りたいと言った宇航の質問内容だ。彼は街ではなく芳について知りたかったらしく、生まれや家族構成、既婚者がどうか。未婚と知ると結婚の時期、子どもは何人欲しいかなどと尋ねた。
自分の理想とする家族像を熱っぽく語り、芳の理想も聞きたいと言い、共通点を見つけては喜ぶ。街には興味の欠片もないようだった。
「声をかけるための口実で、実は口説かれていたのかな?」
琳に貰った髪飾りから女であると判断されたのかもしれない。以前は桃色の羽織を着ていて言い寄られた、芳にとっては良くあることだ。数日もすれば忘れる程度には。
店を振り返ったが、追いかけて来そうにない。興味を失くしたなら良し、本当に話相手を探していたなら十分付き合った、文句はなかろう。
「大芳?」
家に帰るつもりが、芳の足は勝手に宿を目指し動いていた。運良く出てきた静芳が先に見つけ、声をかける。
「小芳、会えて良かった」
ぱっと破顔した芳が近寄り、二人は再会を喜んだ。また食事に行こう、もちろん大歓迎です、じゃあ明日にでも。短い会話で話は纏まり芳は家へ、静芳は食事をしに大通りへと向かった。
飾り気のない服装をした静芳は長い髪を揺らし、雑踏に消えていく。旅装束の時に比べ、ほっそりとした首筋や肩の薄さが目立つ。
すれ違った少女が振り返り、壮年の男も食事をする手を止め目で追う。静芳には人を惹き付ける容姿と雰囲気があるのだ。
宇航が脳裏を掠め、出会わないでいてくれと祈った。凛とした空気を纏っているが優しい子だ、上手く躱す術もなく乞われれば夜通しでも付き合いかねない。手玉に取るなど夢のまた夢であろう。
「何事もなければいいが」
なにかあれば此処へ、と家を教えておけば良かった。芳は一瞬、追いかけるか迷ってやめた。優しさというより、過保護に近いと悟ったからだった。
静芳は確かに女だが、相応の覚悟をして一人で旅をしている。子ども扱いするべきではない、判断能力がないと侮るのは以ての外。
気になるなら聞けばいい、どのみち明日になれば会える。最近できた辛い鍋の店が美味しいらしい、流行り廃りに敏感な母が言っていたのを思い出す。
「帰ろう」
芳は止まりかけていた足を動かし、家に向かって歩き始める。帰って絵の続きを描き、夕食が終わったら母と話そうと決めた。
「食事をする店のこと、それから……あまり嬉しくない出来事もね」
食後のゆったりとした時間、室内はジャスミンの香りに包まれていた。向かいに座り、棗の甘煮を摘まんだ芳の母がころころと笑う。
「災難だったわね」
「うん、まあね。ああ……気になったのは、目が笑っていなかったことでね? 追いつめられているみたいな、それでいて獲物を見つけた狩人みたいな目をしていたんだよ」
あの時、感じた微かな違和感を思い出す。楽しそうに話している風で、焦りや不安に似た感情が潜んでいた。
失くした大切なモノが見つからなくて必死に探している、迷子になった子どもが親を探している、例えるならそんな不安と焦りだった。
「誰かを探していたのかしら。最近多いものね」
二日前、結婚を目前に控えた女が家出すると書き置きを残し、忽然と姿を消した。家人が慌てふためいて探し回り、街を出たところで蹲って泣いているのが見つけ一件落着となった。
勢いで街を出たものの行く宛もなく、無力な自分を嘆いた女は母の胸で泣いた。自分に自信がなくなって逃げたのだと言って。
「そういえば、胡家のお嬢様もまだ見つからないそうよ?」
心配ね、と言う母に頷いた芳は気になって詳しく聞いた。ふと、何故だか静芳の顔が浮かんだからだった。
旅人にしては上等な布、上品な所作、汚れてもいなければ荒れてもいない手、慎ましやかな性格、良家の令嬢と言われれば……頷ける。
「……早く、見つかるといいね」
「ええ、本当に」
ジャスミンの香りを燻らし、食後のお茶は終わりを迎えた。茶器を片付ける母を見送り、一人になった芳は床にごろんと寝転がる。
なにかが引っ掛かる。いや、点と点が繋がっていくような気になっていた。繋げてはいけない点だと思えば思うほど、繋げてみたくなるのが人というものか。
「……いいんだよ、貴女が誰であっても」
静芳という人を気に入った、大切なのはそれだけだと思った。家柄を知っていたから食事を共にしたのではない、女だから次の機会が欲しかったのでもない。
性別も、年齢も、出自も関係なく、ただただ好ましい人と時間を共有したかったのだ。長く続く縁となるなら、これ以上嬉しいことはないのだから。
「あ、店の話を聞いてないな」
起き上がって母の元へ向かう。明日、静芳と食事をする店の情報を教えてもらうために。話題の鍋か、馴染みのある辛い麺か、それとも豪快に肉か、美味い魚にはなかなかお目にかかれないのが残念だ。浮かんでは消える料理たち、考えている時間の楽しさを噛みしめる芳だった。
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