2:大芳と小芳
静芳男装して家出中。
芳悠々自適な次男坊。
静芳は次の街を目指して歩いていた。長閑な景色を眺めながら歩くのは心地好く、体が軽くなったような気がしている。
このまま真っ直ぐ進めば大きな街に着く、人が多く賑わっていると教えてもらい、期待に胸が膨らんでいた。
知らない土地に足を踏み入れるのは楽しい。静芳の狭かった世界は一瞬にして砕け散り、キラキラ輝く広い世界があることを知った。
「夕方には着けるかな? なにか、美味しい食べ物があるといいのだけれど」
街に着いたら、美味しい食事のできる店を探そう。お米もいいが、麺類が食べたい気分だ。辛いものも忘れてはいけない。
楽しいことが待っていると思えば、足取りは更に軽くなる。始めたばかりの旅は全てが新鮮で、人の温かさに満ちていた。
選択は間違っていないと思うには十分で、足取りと共に静芳の心も軽くなっていくのだった。
太陽が西に傾いた頃、街へと到着した。立派な門をくぐり抜け、大きな通りをゆっくりと進む。
屋台の呼び込みの声、肉と小麦粉を蒸した匂い、通りを行き交う大勢の人たち。予想以上の活気に圧倒されつつ、今日の宿を探そうと辺りを見渡した。
宿は新しすぎず古すぎず、綺麗すぎず汚なすぎずが丁度いい。最初に得た知識だった。なぜかは分からないが、入りやすくて適度な接客が一番居心地が良いと思えたからだ。
街の人に評判を聞くのも上手いやり方である。内部の詳細が知りたければ、泊っている客に聞くのも有効だろう。
今回はどうするか。話しかけやすそうな人物を求め、とりあえず近くの装飾品を扱う店を覗いてみる。
と、そこに。自分と同じくらいの背格好をした男がいた。すらりと伸びた背、無造作に結った髪には艶があり、肌は透き通る白さだ。
男だと思ったが、女かもしれないと思い直し、静芳は警戒されないようにそっと近寄る。男にしては細く、女にしては節の目立つ指が持っていたのは簪で、琥珀の玉が揺れていた。
「似合いそうですね」
「そう? じゃあ、これにしようか」
ぽつん、と落ちた言葉を拾われてしまい、慌てて口を閉ざせば明るい笑顔が返される。恥ずかしさに俯くのを見た人物は声を上げて笑い、店主に料金を支払うと受け取った簪を差した。自分の髪にではなく、なぜか静芳の髪に。
「え? あの、これは……」
「似合うと思って。うん、いいね」
店主にもお似合いですと言われ、財布を出そうとした手は止められ、なぜか二人揃って店を後にする。
状況が理解できない静芳は簪を抜き、返そうとしたが断られ、途方に暮れた。行き場のない簪を片手に、妙に楽しそうな相手を見やる。
「お返しします」
「驚かせたお詫びに貰ってほしいな。ああ、似合うと言ったのは本心からで、お世辞ではないよ?」
話す声は低くはないが女の声ではないと分かる。目の前の人物が異性と判明し、後ろめたさを覚え後ずさった。
脳裏を過るのは祖母の言葉だ。背が高く、華奢ではない見た目を悔やむことになろうとは。こっそり吐いた息を聞き逃さず、男は簪を差し直して笑った。
「私よりずっと似合う」
改めて見た顔は美しかった。くっきりとした二重の瞳、真っ直ぐに通った鼻筋、絵に描いたような薄い唇。人を惹き付ける、上品で嫌みのない笑い方が印象的である。
にこにこと笑う芳に簪を返すのを諦め、静芳はお礼を言った。家族以外から物を貰うのは初めてで、くすぐったい気持ちになる。
名前も知らない相手からの贈り物では不安になるだろう、と芳は名前を名乗り、静芳も姿勢を正して名乗った。
男装中は静の文字を言わないと決めていたから、名前は芳だ。偶然にも同じ名前ということになり、芳はまた声を上げて笑う。
「区別がつかなくなってしまうな。背はあまり変わらないか……では、年上の方が大芳で、下の方が小芳と呼ぶのはどうだろう?」
「分かりました。私の方が年下だと思いますので、私が小芳ですね」
こうして芳は大芳となり、静芳は小芳という渾名を手に入れた。兄ができたようで嬉しい静芳、同じ名前の友人に会えたと喜ぶ芳。
二人は食事を共にするために揃って歩き出す。途中で良い評判の宿を聞き、荷物を預けて街へ出た。空腹を訴えるお腹を一刻も早く宥めなければいけない、小芳は辛い麺料理が食べたいと言い、大芳はそれなら此処だと案内する。
平べったい麺にたっぷりの肉味噌、その上に刻んだ青唐辛子が乗せられている。辛さが足りなければ辣油を、味を変えたくなったら酢をかけて食べる料理だ。
お酒を飲みたい大芳は胡麻だれのかかった蒸し鶏、茄子の炒め物を注文した。夜はいつも量を食べないと言葉を添えて。
向かいの席で一心不乱に麺を啜る姿は庇護欲をそそったのか、牛の内臓の香辛料煮込みを追加で注文。臭みのない内臓は柔らかく、味付けは痺れる辛さの一品だ。
「辛くて美味しい!」
「それは良かった。見た目の問題で母には不評なのだけれど、私はこれが大好きなんだ」
内臓を好まない人は一定数いるからね、と続けた大芳はハツを摘まんで口に運ぶ。小芳が口に入れたのはミノで、見た目が悪くても美味しければ問題ないのにと思いながら咀嚼する。
弾力のある内臓は歯を押し返し、溶けた脂がじゅわっと広がったかと思えば、びりびり舌を刺す辛さが追いかけ混ざり合う。美味しい、としか云えなくなってしまった小芳は夢中で食べ、至福の溜め息を吐いた。
「母、で思い出した。最近、ある噂が流れていてね……知っているかな。大きな家のご息女が行方不明になっているって話」
「……え? ええっと、いや、知らないです……そんな噂話があるんですね、へぇ」
もしかして、と嫌な予感がする小芳だった。しかし大芳は噂話は酒の肴としか考えていないらしく、向かいに座っているのが噂の人物だとは思ってもいない。
「朝飯の席で母が言っていたんだ。良家のお嬢様が行方知れずだなんて、なにがあったんだろう。拐かされていなければいいけど、ってね」
「そう、ですね。行方知れず、か」
この世の中には、若い娘を拐って金銭を得る悪い者たちがいると聞いた。一人で家を出て、帰って来なくなった子を探す親を見たこともある。
家を出てからずっと親切な人に会えていたから忘れていた。小芳は唇を噛み、自分の甘さを思い知った。
「小芳は一人で旅をしているの? 気をつけてね、可愛いんだから余計に」
「はい、気をつけま、す……かわ、いい?」
目を丸くして驚いた小芳の手から箸が転がり落ちる。予想していたのと違う反応に大芳も驚き、二人はしばらく無言で見つめ合う。
可愛いを言われ慣れていない頬に朱が差し、口はパクパクと開閉するも声にはならないようだった。
可愛いを言い慣れている眉は訝しげに寄り、パチパチと瞬きをして声が聞こえてくるのを待っている。
「可愛げがない、と言われます」
「そうなんだ。誰がそう言ったのかは知らないが、私は貴女を可愛い人だと思うよ、小芳」
特に気取った様子もなく、当たり前のことのように流れ出る言葉。酒を飲み、蒸し鶏を食べる大芳をまじまじと見つめる瞳には困惑と、嬉しさが滲んだ。
「ちゃんと……気をつけます」
感謝の意を込めて、小芳は大きく頷いて見せた。初めて会った人だとしても、明日には他人に戻っていたとしても、心配してくれている、可愛いと言ってくれているのは事実だから。
「うんうん、いい子だね。ご褒美に、甘いものを食べさせてあげよう」
空になった皿を下げてもらい、代わりに運ばれてきたのは餅だった。きな粉餅が三つ、黒蜜の海で泳いでいる。柔らかい餅ときな粉の香ばしさ、黒蜜の甘さが口に残っていた辛さを消してくれた。
甘いものは疲れを吹き飛ばし、心を落ち着かせてくれる食べ物であった。食後のお茶を飲めば満足感が眠気を誘う。
二人はゆっくり席を立ち、どうしてもと譲らない大芳の財布で支払いを済ませ外へ出た。次は私が、と意気込む小芳を宥めながら宿まで送り届け、ではまたねと言い残して踵を返す。
面白い人に会った、一緒に食事をするのも話すのも楽しかった。じんわり心が温まる、そんな出会いをした。同時に予感があった。また会うだろう。長く続き、始まりの日として今日を思い出す日が来るだろう、と。
「すぐに会える気がするね」
「また、会えるといいな」
別れた二人は大芳から芳に、小芳から静芳に戻り眠りについた。また大芳、小芳と呼び合う日を夢見て。
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