11:多岐亡羊
静芳男装して家出中。
芳悠々自適な次男坊。
宇航家督争いに巻き込まれた苦労人。
朝まで飲み明かし、宇航は宿で潰れていた。起きようにも頭はズキズキ痛み、平衡感覚も失っている。冷えきったお茶を喉に流し込み、寝台に横たわっているので精一杯だった。
しかし気分はいい。芳の家のことを聞けたうえに自分の目的も聞いてもらえ、尚且つ強力すると言ってくれたのだ。酒の席での約束であり、一夜の付き合いに過度な期待はできないものの、抱えた不安を消し去るには十分だった。
休息を欲する体に応えて目蓋を閉じる。先ずは眠ろう、起きたら考えよう。久しぶりの充足感に逆らわず、宇航の意識はゆっくりと沈んでいった。
飲み明かした男たちから家族へと話しは伝わり、瞬く間に尾びれ背びれが付いてしまい、お昼頃には「この街に胡 静芳がいるらしい。恋仲の男が探しに来ていて、見つけたら求婚すると言っている」に変貌を遂げた。
宇航は寝台の上で健やかな寝息を立てている、静芳は遅めの朝食を終えぶらりと街を散歩中。本人たちの知らないうちに、形を変えながら噂話がひっそり広がっていく……。
静芳を迎えるための準備に朝から大忙しの宋家では、次男と三男が部屋の掃除と整理整頓をしていた。夫婦は揃って買い出しに行き、長男は用事があって早くに家を出ている。
「掃除は終わり、で良さそうだね」
「使わない物を物置きに入れてくるよ」
使われていない客間は不要品の置場と化していた。捨てるものは捨て、思い出の品は物置きに押込み、入念に掃除をしてから新品の寝具を運び込む。
磨いた文机の上には持ち寄った数冊の本、花瓶には白い花が一輪差してある。物置きで発掘した未使用の筆と硯を置き、殺風景ではあるが人を通せる部屋にはなった。
「もっと見映えのする花のがいいかな……」
「駄目だと言われたら変えよう。私たちではどうにもならないからね」
愛でる心はあるものの、これ以上の策は思いつかないと匙を投げ、次男と三男は玄関と廊下の掃除に移った。
案の定、大荷物で帰宅した母によって花瓶も花も交換され、細工も美しい小物入れと鏡が更に彩りを添えた。
新しい茶器、食器類は女の子が好みそうな物が選ばれている。寒くなった時用に綿の入った上着も用意された。
「お掃除は十分ね。芳、少し早いけれどお迎えに行ったらどう?」
「ああ、そうだね」
なんの約束もしていない状況だ、静芳が宿にいるかも分からない。すでに予定がある可能性だって否定できないのだ。
芳は急いで着替え、家を出る。寄り道もせずに、真っ直ぐともう行き慣れた宿へ向かった。
「あれ、大芳?」
「小芳、いいところで会ったね。突然だけど、今日の予定は? なければ我が家へお招きしたいのだけれど、どうだろう」
宿の主人と挨拶を交わして部屋に上がる。静芳は部屋にいて、お茶を飲んでいたところだと言う。
特に予定はないからと頷く静芳に、芳はホッと胸を撫で下ろす。楽しみに待っている家族の顔が浮かんだからだ。
楽しみに待っているからこそ、芳は今伝えておくべきか迷った。静芳の気持ちが最優先だ、それは当然のこと。
であれば、今伝える方がいいだろう。受け入れたくないのなら、食事を共にして早いうちに宿に送り届ける。そうしなくてはならない。
「小芳、提案があるんだ。聞いてくれる?」
「うん、もちろん」
芳は姿勢を正し、夕食への誘いと今後の提案をする。部屋の準備はできていて、家族も受け入れる気でいる、静芳さえ良ければ今日からでも構わない。
突然の提案を受け、静芳は迷った。路銀は尽きていないが不安は常にあること、防犯面での心細さと緊張、夜中に襲いくるどうしようもない孤独感。
離れてみて初めて分かった家族の温もり、痛感した自分の無力さ、埋めてくれるなにかを欲する気持ち。頷けば、それらが手に入るかもしれないのだ。
「仲良く、できるかな……」
気持ちを押し殺すことで上手くやってきた。一歩引いて、誰かを優先すれば誉められる。気持ちに反して微笑むのは簡単だった。
家を飛び出してから、無理に笑わなくなっていた。寂しさと引き換えに、自分の心のままに行動する自由を知った。それは、手放したくない自由なのだ。
「試しに、一晩泊まってみたらどうかな?」
慣れない環境、芳の家族とはいえ知らない大人を前に自然体で過ごす自信はない。好かれる振る舞い、失望されない受け答えを探し、以前の自分に戻ってしまうだろう。
「一晩……そうだね、一晩だけ」
殻を破るのも、一歩踏み出すのも自分次第。行動せずに後悔するのは止めにしたい静芳は頷いて見せる、何事も挑戦することに意義があると考えて。
頷く静芳に笑い返した芳は内心で詫びた。母の説得は、きっとこんなものでは済まないはず。頷かない場合、宿に食事を持って通いそうな勢いだ。
「それは良かった。私は下でお茶を飲んでいるから、支度ができたら行こう」
静芳が必要な荷物をまとめている間、芳は食堂でお茶を飲んで待っていた。宿の主人にも告げ、主人は笑って頷く。
「そういえば聞いたかい? 胡家のお嬢様が、この街にいるかもしれないという話」
「いや……知らないね。そんな噂が?」
なるべく自然に聞き返す芳だったが、内容に緊張が走る。知っているのは自分だけだと思ったが、違うのだろうか。静芳の口から広まったと考えるのは無理がある。それなら、どこから?
「さっき聞いたばかりなんだけどねぇ。心配だ、と……はいはい、今行くよ」
別の客に呼ばれ、主人は行ってしまった。残された芳は眉間に皺を寄せ、表情を隠したくてお茶を飲む。
静芳と芳の知らないところで、なにかが起こっている。昨日まではなかった噂の出所はどこなのか、調べたくなった。
「吉と出るか、凶と出るか」
家に招くことで事態がどう動くのかが重要だ。探しているのが胡家の者なら、静芳は黙っていられまい。別の誰かなら、特定されるより早く目的を知る必要がある。
そこまで考えて我に返った。「静芳のため」と思うあまり、視野が狭くなっているのを自覚したからだ。何事にも踏み込んではいけない線がある、冷静に、平等に見る目を忘れてはならない。
「……良くないね」
「大芳、なにが良くないの?」
荷物を抱えた静芳が現れ、芳は苦笑して立ち上がる。良くないのは、静芳のために行動したいと思っている自分が嫌いではないからだ。
しかし本心を言うのは避け、芳は家族のことだと言う。大歓迎で待ち構えている、騒がしかったら申し訳ない、気を楽にして過ごしてほしい、これも全てが本心だった。
「うん、えっと、たぶん平気」
歓迎されていると聞いて悪い気はしない、芳の家族なら恐らく大丈夫だろう。私が変に緊張して、萎縮しなければ……と腹を括った静芳は、後に自分の甘さを痛感する。
「薬膳料理は好き?」
静芳は大きく頷き、鍋と聞きいて期待が膨らむ。家族で一つの鍋をつつく、胡家では見れない光景が見られるのだ。
「楽しみだね!」
「それは良かった」
これを食べて、これも美味しい、次はあれも、と次々に具材を静芳の持つ器に盛り続ける家族。食後には問答無用のお茶会、各自用意しているであろう持ちきれないほどの贈り物。
芳には容易に想像できる家族の行動だった。さて、怒涛の大歓迎に静芳はどんな反応するのだろう。驚き、戸惑い……その後は?
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