オクターヴ。
飲まれる。
ひたひたと、それはやってくる。
私を奪いに来る。
ごくりと一のみにしてしまおうとする。
私の抱きかかえた、最後の、最後の——声。
オクターヴ。
白鍵の八音。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
右手の親指と小指で届かせる、ドからド。
たったこれだけの距離が遠かったときもある。今は、ゆうに届くけれど。
あの頃に比べたら、私は確かに何かを手にしているのだろう。あの頃、泣いても喚いても手に出来なかったことが確かにここにある。
「先輩」
私の隣に、誰かが立つ。ピアノに臥せるようにして体を預けていた私を覗き込む、影。
「……眠ってるんですか」
さらり、長い髪が流れていくのを見ていた。
にきびひとつない、肌。長いまつげが、見える。
大きく、切れ上がった目。人懐っこい、柔らかな光。
耳に心地よい、メゾソプラノ。
これが歌うときになるとどこまでも伸びやかに高みを手にするのを知っている。
「先輩?」
私は億劫になって鍵盤に置いたままの手で音を鳴らす。
低いド。
それに、すっ、と白くて長い指先が降りてくる。鍵盤の上、押さえたままの指に触れる。
「爪、また切ったんですね」
喜色を含んだ笑い。確かに私の爪は肉が見えるくらい深く切ってある。ピアノに触れることが日常な私だからこれくらいしないとすぐにすべらかな鍵盤に引っかかってしまうのだ。カツ、とつめの先が鍵盤に触れたときの嫌な感触を思い出したくなかった。
(——オマエニ)
次の瞬間に、振り下ろされる手のひらを。
(ぴあのヲ弾ク資格ナンカナイ!)
思い出す。痛みも。体の芯が冷えていく、感覚も。
「ッ!」
割れる。
頭が、体が、心が、割れる。
——ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。オクターヴが届かない、小さな手でごめんなさい。ごめんなさい。爪の手入れもできない、不心得をしてごめんなさい。あなたたちの期待にこたえられない、こんな私でごめんなさい。
「……先輩」
頬に、指の腹が押し付けられる。何かをなぞるように、何度も何度も行き来する。その熱さに、我に返る。
拭われた涙を私は静かに見据える。
なぜ、泣くのだろう。この愚かな体は。
もう、飽きるくらい泣きはらしたのに。
「泣かないで」
そう望まれても、そう望んでも、涙はどこからか溢れてくる。嫌な記憶とともに、拭っても拭っても拭いきれない染みのようにこびりついてしまっている。
私の声は、いつしか誰にも届かなくなった。
誰とも喋らなくても、たいして不便はない。授業中に当てられることもなくなったし、もとから友達なんかいないから話しかけてくる物好きにはただ笑い返せばよかった。
大好きな音楽だけは、受けるのがきつかったけど。
歌うことができなくなったのにそれでも私は音楽の授業をサボったことはない。どんな教科よりも大好きだった。歌。音楽。ピアノ。音の、響き。
歌えない私はその反動でかピアノを弾くことが多くなった。休み時間には無断でピアノを弾いてることもあった。それが先生に見つかり、怒られるかと思ったら、逆に先生の代わりにピアノを弾くことで歌の代わりに評価してくれるってことになった。
授業で弾くピアノは実際はそんなに難しくない。私にとっては、だけど。
「深見さんの音はいいわね、素直で」
まだ若い音楽教師がにこにこしながら言った。次の授業で使う、楽譜を私にくれる。
「私もあなたくらい弾けたらよかったんだけどね」
ふう、とため息をつかれても私にはどうしたらいいのかわからない。だって、なんで私より一回り年上の人に愚痴られなきゃいけないんだろう。
「音大出って言っても、私声楽のほうが専門でさ。ピアノったってソナチネも弾けないんだよねえ、笑っちゃうでしょ」
それでもまぐれで採用試験受かって、こんなとこまできちゃうってほんと人生って何が起こるかわかんないもんだ、ね、深見さん。
同意を求められても私に答える義務はないのだろうな。そんなことを知りながら、笑顔を返す。喋れないことの利点は、話したくないときに話さなくていいってことだ。私は渡された楽譜に目を落とし、頭の中のピアノで音を手繰る。
「……やっぱ、音楽バカよねえ」
見えない鍵盤を叩いている五指を見て、先生が笑う。それさえ気にならない。私は音楽が好きだ。たとえ、どんなことがあっても。それが、私の声を奪ったとしても。
指を失うくらいなら、死のう。
そんなことをよく考えていた。ピアノを弾き始めて、一年くらい経った頃だ。小学生だった私。夢を、見ていた私。
ピアニストになる。
それは私だけの夢ではなかった。志半ばで挫折した、両親の夢。幸いにして両親にはなかった才能というものが私にはあった。絶対音感。中学生にあがるころになるとたいていの楽譜は所見で弾くことができた。流行の音楽なんかは耳で聞くだけで楽譜に起こせたし、さらっとピアノで弾くこともできた。
小さなピアノコンクール。
それが、何かを変えた。
優勝して手に入ったお金が思いのほか大きかった。両親の目の色が変わった。私で稼げると思ったのか、両親は有名ピアニストに私の師事を頼み、私はピアノ漬けの毎日を送ることになった。
あの日々を、思い出したくない。
けれど、あの日々がなければ今の私がいないことも忘れてはいけない。
私はピアノを憎まない。
ピアノは素直だから。ピアノは私に答えてくれる。ピアノは私を理解してくれる。
私が憎むのは、あの人だけ。
「先輩」
彼女が私の前に現れたのは二年前。
あの人の葬儀だった。五年間師事していた偉大なピアニストの死に、誰もが悲しみ悼み焼香にかけつけた。私もその頃にはあの人の愛弟子として少しだけ名前を知られていたから、葬列に並ばなければならなかった。私は喜びをひた隠しながら、葬送曲を弾き続けていた。
悲しくはない。波ひとつたたない、とても穏やかな心。平然と、顔を上げて涙ひとつ流さない。
あの人のために流す涙なんかなかった。
私を、人間として扱ってやしてくれなかったあの人に、私があげるものなんかせいぜい葬送曲くらいなものだ。それでさえ、あの人に捧げるには大それている。
私は二年であの人の全ての技術を盗み、三年目であの人を越えた。
十五歳の子供にあの人は負けたのだ。
海外でも国内でも評価の高かったあの人にはすぐにわかったのだろう。だから、あの人は執拗に私に厳しく当たった。
あの人は壊れていった。
けれど、私に非があるだろうか。
私はあの人に壊されたのだから。
あの人は私の声を、奪ったのだから。
「先輩は、音楽が好きなんですね」
はっ、と顔を上げる。
静まり返った葬儀場にはほとんど人がいなかった。私は五時間も同じ曲だけをひたすら弾いていたのに、声をかけられるまで全てが終わったことにも気がついていなかった。
彼女が笑う。
父親が死んだというのに、からからと声を立てて笑う。
黒い、ワンピースが薄い体にぺたりと張り付いていた。白い肌。泣いたような後もなかった。
優しく、鍵盤に触れる指先。
「今日はありがとうございました、本当に」
莫大な財産だけを残して死んだ父親のしてきたことを彼女は知っているようだった。実際、何度か私もそういう現場で彼女の姿を見ていた。私が、あの人に何をされていたのか。
「償いなんか出来ないけど、私、先輩の力になれたらって」
いつか。
そう、彼女は言った。
私は二度と彼女とは会わないだろうし、彼女がどんなことをしたって私の失ったものを取り戻すことは出来ないだろうと思った。だから、笑ったのだ。
二度と会わないだろうと、
最後だと思ったから。
会いたくはなかった。
高校に入ってまであの人のことを思い出してしまうなんて耐えられなかった。
なのに、彼女は笑うのだ。あの、葬儀のときのように。
「先輩」
呼ばれるたびに、私は思い出す。
忘れようとしても忘れられるわけがない。
彼女の笑顔の後ろにある、あの人の影を。
「え?」
戸惑ったように曖昧に唇を吊り上げて、彼女の眼が私を見返した。私はその前にノートを突きつける。
どうして、先輩って呼ぶの。
走り書きの文字を彼女はまじまじと見て、字きれいですね、と呟いた。
「えと、おかしいですか?」
眉間に皺を寄せる彼女に私はこくりと頷く。
「ああ、同い年だから先輩はおかしい、ってことですか」
また頷く。
「そりゃ、クラスメイトで先輩って呼ぶのは変かもしれないですけどね……昔っから呼んでたしなあ。定着しちゃったから今すぐ呼び方変えるのって難しいと思います」
なぜ?
また、シャーペンを走らせる。それを覗き込み、うーんと彼女はうなった。
「だって先輩のほうが有賀先生に師事したの先だったじゃないですか。だから、先輩は先輩なんです。今更——深見さん、なんて呼べないですよ」
ああ、また。
あの人のことを、実の父であるというのに彼女は師と弟子の関係しか持ち込まない。
有賀了。それが、あの人の、名前。
「……また、無神経なこと言っちゃいました? 私」
私の反応がおかしいことに気づいたのか、彼女はこわばった顔でその白い指を伸ばし、私の頬に触れる。震えているのはどちらなのか、私にはわからない。けれど、彼女の指は夢が覚めるほど冷たく、痛かった。
こうして彼女は無遠慮に私を犯す。心を踏みにじる。けれどそれは無意識なのだ。だから、私は言いようのない憎みや嫌悪を露にすることができない。これが、せめて意識的だとわかったら私は彼女を手ひどく切り離すことが出来るのに。
「ごめんなさい」
彼女の指が、頬を伝い顎を降りていく。そして、そのまま喉に触れ、止まる。
「呪いを、解けたらいいのに」
私が。
さっと、彼女の唇が指のあったところに触れて、私がぴくりと体を震わせると彼女はきびすを返して走り去っていった。
なぜ。
私は戸惑う。
なぜ、彼女は——。
答えの返らない問いだけを反芻する。それはひどく気が滅入ることだった。
「深見さん」
嫌な感じだった。
放課後、一人で音楽室で授業の曲を一回弾いておこうと思ったときだった。
数人の女の子が私の周りをぐるりと囲んだ。
「今日は一人なの」
「有賀は?」
「いないんだ。いつも一緒なのにね」
私は俯く。嫌味を言われる時間がもったいなかった。早く、ピアノが弾きたい。鍵盤に、触れたい。
「有賀だって自分の父親殺した相手とそう一緒にいたくないんじゃないの」
醜い。
心が、醜い。
悪意をこうして真正面から受け止めるのは、あのときから馴れてはいるけれど。
私は微笑む。
なんのことだかわからない、と。
愚かな少女のように。
「あたし、知ってんのよ!」
パンダ目の少女が怒ったように声を荒げた。
「うちの兄貴、新聞記者でね。偶然あんたの名前出したら二年前の事件のこと教えてくれたわ。有賀了事故死、の。有賀了って有賀月の父親でしょ」
だから、何。
ふつふつと抑えきれない感情が足元から這い上がってくる。
「兄貴があんたに取材したいって言うのよ。なぜかしら。……あんたにはわかるわよね」
取材。
「まだ、疑惑は晴れてないんだって。——あんたが殺ったんじゃないかって」
疑惑。
私は顔を上げる。真正面から彼女たちを見据える。びくり、と彼女たちが顔をこわばらせた。けれど、リーダー格の少女はまなじりを吊り上げて挑みかかってくるような虚勢を張る。可愛そうに、足が震えている。こういうことに馴れていないのかもしれない。けれど、弱いものを攻撃しないと憂さが晴れないのだろう。私は別に彼女たちのはけ口になってもかまわない。私は傷つかないから。
もう、あの人以外に私を傷つけることが出来る人なんかいないから。
そうだ。私はもう、傷つかない。
誰も私を傷つけることはない。
「なによ、その目は!」
振り上げられた手を、見つめていた。
それが私の頬に触れる前に誰かがその手首を掴む。ぎ、り、としなやかな指が食い込み、手首を捻り挙げる。
「あ、」
痛みに顔をしかめた少女が振り仰いだそこに彼女が立っていた。
「……忘れ物、取りに戻ってきたんだけど正解だったかな。ね、先輩」
とたん、一気に少女の表情が固まる。取り巻きはリーダー格を置いてばらばらと教室から逃げ出した。
「言いがかりもいいところだよ、三倉さん。あれは事故だったんだよ? 誰も悪くないし、先輩は誰も傷つけてない。むしろ一番傷ついたのは先輩なのに、その人をいじめて楽しい? 暴力とかさ、振るう人って最悪。最低。人間のくず。あと、人の詮索するやつも私、大嫌いなの」
彼女の微笑みは完璧で、だからよけいに彼女が怒っているのがわかる。彼女の握力は意外に強い。
「だから新聞記者も嫌い。週刊誌も嫌い。マスコミなんか大嫌い。最低のゴミにあの人の死の真相なんか教えてやるわけないでしょ」
それはさも、神の神託のようで。
絶対に揺るがない、大地に深く根付いたもの。
その、正しさが痛い。
ああ、私は傷つかない。
彼女がいる限り。
彼女の庇護があるから。
絶大な神の。
麗しく煩わしい庇護が。
「怒ってる?」
低いド。
いいえ。
ぜんぜん。
全く。
「怒ってるでしょ」
低いド。ド。ド。ド。ド。
「お・こ・っ・て・る」
癇癪みたいに鍵盤を手のひらで打ちつける。ぐわしゃん。不協和音。耳が、手が痛い。けれど、私には彼女に伝えるべき声がない。ああ。言葉が、ない。
言葉が。
震えている。
音は、空気を振動させている。悲しみも、怒りも、喜びも、あらゆる感情は音に帰る。震えが全ての答えだ。人と人をつなぐ意思疎通。それらはすべて震えを介している。
心が震える。
私は言葉を失ったのではなく、ああ、言葉を用いることはもはや意味をなさないくらいに、私は震えているのだ。私自身が。一つの音だった。
言葉そのもので。
私という音。
怒り。痛み。悲しみ。
心の震えが、私の言葉だ。
伝わる。
伝える。
伝われ。
私を、誰か。
「ッ、」
涙が、落ちる。
ぬるい、水。
それを拭う彼女の指先。
鍵盤の上にあった彼女の指を思う。まるで私自身、鍵盤になってしまったような気持ちになって、また泣いた。
あれは事故だったのだ。
グランドピアノの蓋を支える棒ががたついていたのは教室に通う誰もが知っていた。
その日、私はあの人にまたののしられた。あの人は私を責めることで自分を優位に立たせようとする嫌いがあった。執拗で陰湿なそれに立ち向かうには私はまだ幼く、脆かった。私は逃げて、逃げて、気がついたら側に彼女がいた。
「助けてあげる」
そうやって彼女は小さい子どもをあやす母親のように慈愛に満ちた指先で私の頭を撫でて、教室の中に入っていった。ひとしきり泣いた後、私は教室に楽譜を忘れてきたのに気づいた。戻るか戻らないか迷って、結局取りに戻ったとき、教室からパタパタと誰かが走り去る音が聞こえた。
そのあと、なにか大きな、ドアが勢いよく閉まるみたいな物音がして、誰かの叫び声のようなものを聞いた。
教室に入ると、あの人がピアノに喰われていた。
それからの記憶は途切れ途切れだ。
警察の人やなんかが私の話を聞きに着たけどそのときはもう私の声は失われていた。
ピアノの内部に落としてしまった指輪を取ろうとして中をのぞいたときに、ピアノの蓋が落ちてきた稀な事故だということで全ては片付いた。
でも、不思議な違和感を私は覚えていた。
それは、憶測でしかない。私は第一発見者で、一番疑わしいのは私だった。けれど、私は考える。
彼女が、もしかして、彼女が——あの人を殺したのではないか、と。
私のために。
私たち、オクターヴみたいですよね。
ふと、彼女がそう呟いたことがある。事故の起こる数日前のことだ。
「オクターヴ?」
それは、永遠に隣り合わない音階。
高いドと低いド。
同じドなのに高さが違う。
永遠に、平行線。
交じり合うこともない。
なのに、時として同時に弾かれる音。
「オクターヴ」
彼女はそのとき、笑っていた。
無邪気な、あまりにも他意のない笑顔だった。
私は震えている。
あの日からずっと、震えている。
私の音に気づいたのは彼女だけで、彼女のことに気付いているのも私だけだ。
私たち、オクターヴですよね。
彼女の言葉が、迫ってくる。
私たちは、罪を犯している。
同じ罪を、知っている。
これからもこれまでもずっと、私たちは寄り添って生きるしか道はないのだと。
あの人の死の秘密が私たちを縛り付け、やがて私か彼女のどちらかが先に逝ってしまうまで。
私は彼女を恐れ、縛り付け、庇護され、甘やかされて、彼女は私を恐れ、縛り付け、監視し、甘やかしながら。
お互いが、お互いを疑い、かばい続ける共犯なのだと、知っているがゆえに。
「ねぇ、センパイ」
彼女は美しく、嗤う。
「私たち、オクターヴですよね」
何度も繰り返される言葉。
私は、彼女の顔を見上げ、そっと瞼を閉じた。
オクターヴ。
私たちはその距離を保たなければ美しく響き合うことが出来ない。
一歩でも近づき、あるいは離れたら途端に崩壊し不協和音に成り下がる脆さ。
檻の中にいながら、なお、彼女は美しく嗤う。
自分を嘲るように、
甘く、
甘く——。