第9話 てんてこ舞い!
それからはもう、目が回るような忙しさだった。
清史郎がカウンターの裏にある厨房でつくった料理を、琴音が客のところへ運んでいく。清史郎がどれをどこに運ぶのか細やかに教えてくれたので、迷うことはなかった。
とはいえ、料亭だけあって皿数が多い! もうワンプレートにまとめればいいんじゃないかな、それか大皿! と最初は思ったけれど、よく見るとそのひとつひとつに料理を作る人のこだわりが表れているのが見て取れた。
使われている器は、小さく可愛らしいデザインのものから立派な焼き物まで多種多様。
籐で編んだ小さな籠に花籠を連想させるような可愛らしい装飾がほどこされた串揚げが何本も入っている料理や、美しい桜の蒔絵が描かれた漆の器を使った料理など、春が来た嬉しさを思い起こさせるものも多い。
きっとこの見た目も含めて、客たちは料理を楽しみに来てるんだ……とわかってくると、次第に皿の多さも気にならなくなっていた。
客たちはホールのテーブル席でも個室でも、みな普通の人間とは違う異形の姿をしている人ばかり。あれ? この人は人間っぽい見た目をしているなと思っても、口を開けると蛇のような長い舌が出てきてびっくりしたこともあった。
そうこうしているうちに夜は更けていき、気が付くと窓の外に滴っていた雨筋も消えていた。雨も上がったみたいだ。
客たちが帰るころあいに、ようやくイネも目を覚ました。彼女はすっかり眠ってしまったことをしきりに恐縮していたけれど、ちょうど迎えに来た旦那に連れられて何度も頭を下げながら帰っていった。
「さて。私もそろそろ帰ろうかな。明日もう一度、イネの家に様子を見に行くことにするよ」
イネの看病をしてくれていた童孟もそう言うと、肩に鮮やかな羽織をかけて優雅に玄関の向こうの闇へと消えていった。
童孟の姿が見えなくなって、さて食器を片付けなくちゃと琴音が振り向いたとき、個室へと続く廊下の方から頭が異様に大きな和服姿のご老人がのっそり現れる。
「ワシの履物はどこかいの」
その後ろには上品そうなご婦人も連れていた。たしか、一番手前にある個室で料理と清酒を楽しんでいたご夫婦だ。
「あ、えと。は、はきものですねっ。ちょっとお待ちくださいっ」
履物ってどこにあるんだろう。
そういえば童孟とイネの旦那は履物を玄関の隅に置きっぱなしにしていた。だからそれを履いて帰っていったけれど、イネの履物はどうだったかな。
しばし考えて、
(そうだ。こっちだ!)
玄関の脇にある小さな暖簾の向こうから、旦那がイネの履物を持ってきていたのを思い出した。
琴音もその暖簾をくぐって隣の小部屋にいってみると、そこには大きな木製の靴箱とハンガーかけが並んでいる。
(そっか。ここがクラークなのね。えっと、あのお客様の履物は、と)
靴箱にはそれぞれ『桜』や『椿』などの文字が彫られていた。これはたしか、個室の部屋名と同じだ。となると、この『て1』とか『か3』とかあるのは、それぞれテーブル席とカウンター席かもしれない。
(えっと、あのお客様のお部屋は確か……牡丹! そうだ、牡丹の間だった!)
下駄箱の表面を指でなぞるようにしながら、牡丹の文字を探す。
(牡丹、牡丹っと……あ、あった!)
一番下の段に牡丹の文字を見つけ、そこを開くと男性ものと女性ものの草履が一足ずつ入っていた。それらを手に、すぐに玄関へと戻る。
それを上がり框の下に丁寧に置くと、老夫婦はその草履を履いて穏やかに会釈しながら「それじゃあ、また」と玄関から帰っていった。
「またお越しください」
深くお辞儀をして二人の背中を見送る。玄関の外は闇に沈んでいたけれど、あの赤い火の玉はまるで道を照らす松明のように闇の中で並んでいた。
そうして客たちは次々と帰っていき、最後の客を見送ると、あれだけ賑やかだった料亭の中は途端にしんと静まりかえる。
最後の客の背中が闇の中に見えなくなるまで見送って玄関へ戻ると、ちょうど奥から清史郎がこちらへ来るところだった。
彼は玄関にかかっていた暖簾を下して玄関脇に仕舞い込み、その大きく開かれていた引き戸を閉めた。鍵をかけてふりかえった彼は、疲れ交じりの笑みをこぼす。
「今日は、本当にありがとう。どうなることかと思ったけど、助かったよ」
その笑みにつられるように、琴音の顔も緩んだ。
「私のほうこそ、急に来たのにおいしい料理でおもてなししてもらって……ああ、そうだ。最後に出たなんとか焼き。黄色いほうひとつ食べ損ねちゃった……」
緑のえんどう豆の餡がつまった方もおいしかったから、もう一つの方もきっとおいしかったに違いない。それが心残りでいると、清史郎は「ああ、それなら」と店の奥を指さした。
「まだ残りあるけど、食べる? 温めなおしてあげようか?」
「え!? ほんとうですか!!」
「ああ。あっちのカウンターの方へおいで」
(やった! たくさん働いて、またお腹すきはじめていたんだ)
琴音は清史郎とともに店のカウンターへ向かう。しかしその道すがら、かすかに『よかったね』と、そう小さな子供の声でささやくのが聞こえたような気がした。けれど振り返ってみても、そこには誰もいなかった。