第7話 困りごと
「よ、よかっただー。イネー!」
イネの旦那は、灰色の毛の生えた太い腕で顔をごしごししながら大泣きしている。その彼の肩をポンとたたくと、童孟は優雅に立ち上がった。
「さて。薬湯を作るのに、湯をもらいたいんだが」
「それなら、すぐ準備できる。今、もってくる」
清史郎はそう返して、すぐに廊下を駆けていく。しばらくして戻ってきたときには、手に湯の煮立った鍋をもっていた。
琴音がテーブルにあった食器類を隅に寄せると、童孟は「お。気が利くね」とにっこり笑って、持ってきた革カバンをテーブルの上で開ける。
がま口のように開いたカバンの中には、様々な小瓶や乾燥した植物の束、医療器具らしきものが詰まっていた。
童孟はそこから白い陶器のすり鉢とすりこぎを取り出すと、幾つかの薬草を混ぜてすりつぶしはじめた。そこに清史郎が持ってきた湯を注いだとたん、青々しくスパイシーな香りがふわりと立ち上る。できあがった緑のドロッとした液体を童孟は湯のみに注いで、イネの旦那に渡した。
「ほら。これをゆっくり飲ましてやんな。そんで、無事に子が生まれるまではあんまり無理させないこったな」
旦那は大事そうにその湯飲みを受け取るとふーふーと吹いて冷ませてから、イネの上半身を起こしてやって口元に湯飲みを近づけた。
イネは少しずつ薬湯を口に含んで飲んでいく。途中咽そうになったこともあったけれど、どうにか飲み干すと再び布団に横になった。
薬湯のおかげで身体が楽になったのか、イネはすぐに安らかな寝息をたてはじめる。
それを見て、琴音と清史郎それにイネの旦那の三人は、はぁっと安どの息を漏らすのだった。
「起きるまで、イネをここで寝かせておいてもいいだろか。オラ、ちょっと家に残してきた子どもたちの様子を見に帰らないとなんねぇんだ」
灰色の大きな三角耳をぺたんと寝かし、尻尾も足の間に挟みそうなくらい元気なく垂れさせて申し訳なさそうに頼むイネの旦那に、清史郎は大きくうなずいた。
「ああ、もちろん。そうだ。あんたも仕事帰りで子どもたちの夕飯もまだだろ? あとで握り飯でも届けてもらうようにするよ」
清史郎の言葉に、イネの旦那はますます申し訳なさそうに頭を掻く。
「何から何まですまねぇだ」
「いや、俺の方こそ。おイネさんの好意に甘えて、大きなお腹なのに仲居の仕事を続けてもらっていた。そのあげくに無理までさせてしまって、本当に申し訳ない。三日前にもう一人いた仲居さんが突然ぎっくり腰で辞めてしまったばかりで、それでおイネさんへの負担が大きくなってしまっていた」
清史郎の言葉には後悔の色がにじんでいた。
一方、イネの旦那は、
「いつも世話になってるのはオラたちのほうだ。イネをよろしくお願いします」
そう頭を下げると、旦那は急いだ様子で帰っていった。
バタバタという彼の足音が遠ざかるのを聞きながら、テーブルの上のものを革カバンに仕舞っていた童孟が独り言のようにつぶやく。
「ぎっくり腰ってぇと、御池通りの『山姥』だろ? 昨日呼ばれて、診てきたよ。あれももう歳だからな。薬で多少は和らげるが、しばらく休むのが一番だ」
「そうだよな……」
はぁと清史郎は大きくため息を返す。
「……しばらく、仲居をしてくれる人が見つかるまで店を閉めるか、もしくは向こうのカウンターとテーブル席だけの営業にするしかなさそうだな」
「そもそも、今日の営業だって危ういんじゃないのか?」
童孟の指摘は図星だったらしく、清史郎はウッと顔を曇らせたあと大きく肩を落とした。
「……そうなんだよ。さっき、古だぬきの親父さんが他のお客さんたちに事情を話して回ってくれて、少し待ってもらってるけど。今日はテーブルにもカウンターにも個室にも客が満杯でさ。料理は作れても、俺一人じゃ回しきれそうにない」
「誰か手伝うのがいねぇとな」
琴音は二人の話を聞くとはなしに聞きながら、イネが倒れたときに床に落としたお盆などを片付けていた。そういえば中居はいまイネ一人しかいないと言っていたっけ。料亭も人手不足に悩んだりするんだなぁなんて考えながらお盆をもって立ち上がったところで、童孟がじっとこちらを見ていることに気づく。
琴音は「はい?」と小首をかしげるが、童孟は良いことを思いついたという顔でぽんと手をたたいた。
「ここにいるじゃないか。ちょうど都合よく仲居の格好をしたお嬢さん」
「へ?」
何を言われているのかわからず素っ頓狂な声をあげる琴音。
童孟は着物の袖の中で腕を組んで、にっこりと琴音に微笑みかけた。
「お前さんのことさ。どうだい、ちょっくらここの主人を手伝ってやっちゃくれないかね」
「え……私が、ですか!?」
自分を指さしてあんぐりと口を開ける琴音に、清史郎は慌てた様子で言葉を重ねた。
「ば、馬鹿言わないでくれよ、童孟先生! この方はお客さんだ。今だってずいぶんご迷惑おかけしてんのに、これ以上面倒かけるようなこと頼めるわけないだろ!」
清史郎はそう言って、童孟の提案をきっぱり断ってくれる。
童孟も「そっかぁ。いい案だと思ったんだがな」とそれ以上、言いつのってくることはなかった。
二人の話題はすぐに今晩店をどうするかということに戻ったけれど、琴音の頭の中には先ほどの童孟の言葉が何度も繰り返し響いていた。
いままで生きてきた二十七年。その中で最大の谷ともいえる不運の連続に心が折れてしまいそうになっていたとき、この料亭は自分の目の前に灯をともしてあたたかく迎え入れてくれた。
着物を貸してもらったり、おいしい料理でもてなしてもらったり。
それで、すっかり元気づけられて明るい気持ちにさせてもらった。
でもそれにはなにより、優しく接してくれたイネや、心をつくした料理を作ってくれた清史郎に救われた部分も大きいのだ。
きっと今日この料亭に出会わなかったなら、琴音はいまもみじめな気持ちで京都のすみっこでさみしい思いをしていたことだろう。
だから、少しでもそのお礼ができたらという気持ちが湧いてきたのは、琴音にとって自然なことだった。
「あ、あの! 私、お手伝いしましょうか!?」
琴音が二人にそう声をかけると、彼らは話をやめて琴音を見る。清史郎は驚いた顔のまま琴音を凝視し、童孟は思った通りになったといわんばかりにニヤリと笑った。
「え……そんな、無理しなくていいんだよ?」
清史郎は眼を丸くしたまま、なんとか絞り出したような掠れた声で尋ねてくる。
琴音はゆるゆると首を横に振ると、
「無理じゃないです。えっと、大学生のころにファミレスでバイトしたくらいの経験しかないですが、運び方とかはおイネさんの仕事を見ていたので、その範囲でならなんとか真似できるかな……って……。そ、それに! お料理、とても美味しかったんです。心の中まであったかくなるような味で。きっとほかのお客さんも清史郎さんのそのお料理を楽しみにここにきて、いまも待ってくれているんですよね。だから、ほかのお客さんたちにももっと清史郎さんの料理を味わってほしくて」
つっかえながらも、いま胸の中にあった素直な気持ちをいっきに語る琴音。
顔を上げると、清史郎はますますびっくりした顔をして琴音を見ていた。
その彼の背中を童孟がバンと叩く。
「ほら。彼女もそう言ってんだからさ。お言葉に甘えさせてもらえ」
うんうん。と童孟の言葉に同意して琴音も頷くと、清史郎は一瞬目を潤ませたあと、
「……ありがとう。じゃあ、お願いする……いや、お願いします」
琴音に向けて深く頭を下げた。すぐ間近に見える彼の黒髪の間には、いまも二本の角が覗いている。
もうこれが、夢なのか現実なのか、琴音にはまったくわからなくなっていた。もし夢じゃないとしたら、人とは違う姿をもつ彼らは一体何なのだろう。わからないことだらけだったけれど、それでも清史郎がとても実直で誠実な人なんだろうなということは確信できた。
だから、彼が困っているなら助けたいと素直に思った。
琴音は笑顔で答える。
「はいっ。よろしくお願いします!」
こうして琴音は、この不思議な料亭で臨時仲居をすることになったのだった。