第60話 裏葵祭
裏葵祭の夜。
孔孟は、縁側に腰かけて熱燗を盃でひっかけていた。
夜空には真ん丸の月が昇っている。
「今日は満月か。さぞ、祭りもにぎわうことだろうな」
そうは言いつつも、孔孟はあやかしになってこの幽世へ住まうようになってから今日まで、一度も祭りのようなあやかしたちが多く集う場所に顔を出したことがなかった。
仲違いをしていた兄にうっかり出くわすことを恐れてのことだったが、これからはもうそんな心配もせずに済むのかもしれない。そう考えると、今宵の月はいつになく鮮やかに明るく思えた。
「なぁ。次の祭りには一緒にいくか。童孟」
孔孟は穏やかな声で、和室の布団で横になっている兄へと声をかける。
しかし童孟はそれには答えず、
「……迷惑かけてしまったね」
天井を見つめたままポツリとそう返してきた。
孔孟はこのあと何と言葉を繋げばいいのか考えあぐねて、盃の酒をくいっとあおる。
「迷惑なら、お互い様だ。今となってみれば、俺以外の医者にお前を託して、もしお前に何かあったらと……そのことを考えるだけでぞっとする。……あの人間の娘のおかげだな。あの娘の勢いにぐいっと戸の外へ引っ張り出されちまった気がしたんだ」
そう漏らす孔孟に、童孟はフッと笑みをこぼす。
「ああ。琴音は、良い子だよ。本当に」
「そうだな」
二人でこんな穏やかに夜を過ごせる日がくることなんてもう望むことすら忘れてしまっていた。それなのに、話始めてみれば隔てていた長い時間がまるで嘘のように、昔と変わらず二人でいることが当たり前のように思えてくる。
「私も酒が飲みたい」
「つい数時間前まで棺桶に両足突っ込みそうになってたやつが、何言ってんだ。お前はそこの薬湯でも飲んでろ」
久しぶりに再会した兄弟の上に、月の青白い光が静かに降り注いでいた。
裏葵祭の会場は、現世の葵祭同様に二つの川が加茂川へと合流する辺りで行われるらしい。観覧席が設けられているのは、その出発地点周辺というのも現世と同じだ。
作り終えた弁当を車に詰め込んで観覧席のある広場へ到着すると、すぐに事前予約をしたあやかしたちが引換券片手に集まってきた。
ほんの小一時間でバンの荷台いっぱいに積んであった弁当は捌けてしまった。
「さあ、俺たちも見学しに行こう。阿空さんたちが場所をとっててくれるって言ってたから」
観覧席にはたくさんのあやかしたちで既に埋まりつつある。足の踏み場もないほどに、ゴザやシートを敷いたり、そのまま地べたに座るなどして持ち寄った重箱や酒を囲んでいる。もうすっかり酒が回って、できあがっているあやかしもいた。
(なるほどー。花見とお祭り観覧が一緒になった感じなのね)
この辺は現世の葵祭の楽しみ方とは大きく違うところなのかもしれない。
清史郎に先導されて、琴音も観覧席の間を歩いていく。豆福に善治、時子に一反木綿も一緒だ。
酒呑童子は、留守番を買って出てくれたので一人「おおえ山」に残っていた。清史郎曰く、「いま店にどんな酒が入ってるか気になって仕方ないだけだろ。きっと、帰ったら全部飲み干されてる」とどこかあきらめた様子で嘆息していた。とりあえず、一反木綿用に八塩折之酒を一本持ちだしてきたのは正解だったかもしれない。
清史郎のあとについて観覧席を縫うように歩いていくと、一際大きなゴザの上に座る阿空とイネ夫婦の姿を見つけた。彼らの周りには、上は七才前後、下はまだ三才くらいとおぼしき七人の子どもたちが、わらわらと揉みくちゃになって遊んでいる。しかもどの子も、阿空に似た灰色の耳とくるんと巻いた尻尾か、イネのような黄色い耳とふさふさの尻尾をしていてとっても愛らしい。
その子たちを優しい瞳で見守るイネのお腹は、数か月前に会ったときよりもぐんと前にせり出して大きくなっていた。
「お久しぶりです、おイネさん」
「あ! 琴音さん! その節は、ほんまお世話になりました」
イネは琴音を見てお辞儀しようとするが、つっかえそうなほど大きなお腹に琴音のほうが慌ててしまう。
「ああっ、顔をあげてください。おかげさまで、私も職と住む場所を手に入れられましたし。それにしても、お腹大きくなりましたね」
「ええ。来月、臨月なんです」
「うわぁ! もうすぐですね!」
きっと阿空とイネに似た獣耳のとっても可愛らしい赤ちゃんたちなんだろうなと想像すると、もう今から会えるのが楽しみになってくる。
そんな妄想に耽ってほくほくしていた琴音に、清史郎が手に持っていた風呂敷包みから弁当を一つ取り出して渡してくれた。
「はい。これ、琴音さんの分。あとはこれ全部、おイネさんちの」
残りの弁当は風呂敷包みごと阿空に渡す。
「おおきに、清史郎さん。うちの子たちも、『おおえ山』のお弁当、毎回楽しみにしてるだ」
「これくらいしか、できることないから」
みなに弁当が行きわたれば、ゴザの上の思い思いの場所に腰掛ける。
イネ一家はゴザ半分にかたまっていて、もう半分の前方には善治と豆福が仲睦まじげに並んで座っている。二人の間には時子が座り、もう弁当を食べ始めていた。一反木綿は、相変わらず隅っこのほうで八塩折之酒を入れたお猪口に端っこを突っ込みへろへろのくしゃくしゃになっていた。
そんなわけで、なんとなく自然と琴音は清史郎と一緒に座ることになった。
琴音がゴザに腰を下ろすとすぐに雅楽の音色が奏でられ、裏葵祭がはじまった。
現世の葵祭同様、平安装束に身を包んだ行列が目の前を通り過ぎていく。
馬に乗った兵士や、艶やかな着物に身を包んだ女性たち。大きな笠へ花をふんだんに飾った御所車や神輿など、総勢千近くの者たちの列が続く。
ただ現世と違うのは、衣装を着ているのが人間ではなくあやかしたちということ。
そのため、首の長い女性たちがいたり、羽の生えた天狗が飛んでいたり。炎をまとう大きな車輪が転がってきたり。行列の周りには赤や青の鬼火がふわふわと舞っている。
そんな、なんとも幻想的な光景が続いていく。
もしこれを幽世に迷い込んだ昔の人間が見たならば、百鬼夜行と名付けたかもしれない。なんてそんなことを思いながら琴音は弁当を食べるのも忘れてあやかしたちの平安行列に魅入っていた。
そのとき、隣に座る清史郎が躊躇いがちに話しかけてきた。
「こんなときになんだけど、一つ急ぎで確認しておきたいことがあるんだ」
「え……なんですか?」
急に改まった調子で話しかけてくるので、何事かと思い琴音は清史郎に目を向ける。それなのに清史郎は琴音とは目を合わさず、視線をさまよわせた。
「……あんなことがあったから、しばらく現世との行き来はできなくなってしまうんだ。陰陽師連中の侵入に備えて、『おおえ山』以外の現世との出入り口も一時的に閉じてしまっている。でも今ならまだ親父に頼めば琴音さんのために一瞬だけ結界を開けることもできるから……もし現世に戻るんならその……」
言いにくそうに口ごもる清史郎
それはつまり、一度現世に出てしまえばもう二度と「おおえ山」には戻ってこれなくなるということだろう。そして次はいつ「おおえ山」への門が開くかわからない。
「……清史郎さんは、私が『おおえ山』にいたら迷惑ですか?」
率直にそう尋ねてみると、清史郎は慌てた様子で否定した。
「そんなことないっ! ……そんなこと、全然思っちゃいない。だけど、あやかしたちの安全のために、次いつ現世との行き来ができるようになるかわからないんだ。あやかしたちは寿命が長いから悠長に待っていられるけど、琴音さんは……」
あやかしに比べて寿命が短い琴音にとっては、もしかすると生きている間にはもう二度と、現世と「おおえ山」を繋ぐ門は開くことはないのかもしれない。
琴音は、目の前をゆっくりと通り過ぎていく裏葵祭の行列に目を移す。
たくさんの鬼火が舞うのを眺めながら、琴音の脳裏に浮かぶのは人生のどん底だったあの土砂降りの雨の日のこと。
冷え切った心を温めてくれたのは、清史郎の作るおいしい料理。そして、「おおえ山」に集うあやかしたちだった。
自分がいま一番居たい場所はどこだろう。そう考えると、すぐに結論は出た。
琴音は清史郎に目を向けると、彼の眼を見てはっきり答える。
「私、現世には戻りません。これからも、「おおえ山」で働いていたいんです」
「……いいのか?」
驚くように見開かれる彼の目。琴音の口元が笑む。
「はい。だって私、『おおえ山』が大好きなんですもん。もちろん、清史郎さんも大好きですよ?」
自然と口をついて出てきた言葉だったが、清史郎は一瞬かたまったあと、うっかり手に持っていた弁当を取り落としそうになった。
「わわっ……!」
「きゃっ、大丈夫ですか!? あ、あの、そういう意味じゃなくて、豆福さんも善治くんも時子ちゃんも、みんな大好きで! そういう意味での、好きって意味でっ!」
自分の失言に気づいて顔を真っ赤にしながら慌てて言い加える琴音に、
「う、うん、わかってる……」
同じく顔を赤くして落としそうになった弁当を寸前でキャッチした清史郎は顔を俯かせた。
そんな大慌ての二人を眺めながら、善治が呆れ顔で呟いた。
「あいつら、とっととくっつけばええのに」
それには、くすりと豆福も笑みで応える。
「アテもそう思いますけど、ものには順番いうもんがあるんどすえ」
「うんまぁ……順番間違えると、えらい遠回りになってしまうこともあるもんな……」
自戒を込めて呟く善治。
そんな悲喜こもごもをよそに、裏葵祭の行列はしゃらんしゃらんと鈴の音を響かせながらゆっくりと彼らの前を通り過ぎ、裏葵祭の夜は更けていった。




