第51話 とある兄弟の話
五月十日を過ぎると、蚯蚓出と名付けられた季節となる。蚯蚓出はその名の通り、ミミズが土の中から這い出てくる頃という意味だ。他の生き物たちに比べて遅くに活動しだすミミズも、ようやく土を耕し始める温かな季節。日によっては、もうかなり日差しの強くなる日もあって、夏の訪れを感じさせる。
葵祭が翌日に迫ったその日も、夏を思わせる日差しの強い日だった。
このころになると葵祭の準備のため、『おおえ山』もゴールデンウィークの賑わいとはまた別の慌ただしい気配が漂い始める。琴音も現世へのお使いであちらこちらへと行くことも増えていた。
その日もエコバック二つを両手に提げた琴音は、河原町通りを渡って祇園の花見小路通りへと戻ってきた。いろんなお店に寄ったので、頼まれたものをちゃんと買えたかどうか頭の中でもう一度ふりかえりながら歩いていく。
(えっと……あそこのお店の抹茶と、そっちのお店の干菓子と、こっちのお店の生麩と……)
まだ店名までは覚えきれていないが、清史郎が書いてくれたメモを頼りに確認しながらお店を探して買ってきたので間違いないはずだ。
それでも、そろそろ地図アプリがなくても祇園・河原町界隈なら歩き回れるようになってきたことが、なんだか少しずつでもこの街に溶け込めているようで内心うれしい。
そんなことを考えながら歩いていたため、琴音は気づかなかった。
琴音の背中にいつの間にか人型の小さな白い紙が、まるで静電気でひっついているかのようにぺたりと張り付いていたのだ。
琴音はそのまま祇園の片隅にある現世と幽世の挟間にあるという門をくぐり、『おおえ山』へと戻ってくる。
両側に火の玉の灯が並ぶ小道を歩いていると、『おおえ山』の玄関から見慣れた男性が出てきたのが目に入る。派手な羽織に、金色の長い髪を揺らして歩いてくるその人。遠目でもすぐに誰だかわかった。
「童孟先生! お帰りですか?」
琴音が声をかけると、童孟も「やあ」と目じりを下げる。
「豆福に例の香を届けにきただけだからね。それにしても、豆福もすっかり化けるのが上手くなったもんだ。あれならもう、香は必要ないかもしれんね」
「豆福さん、猫になっても美人さんなんですよね。あ、そうだ。童孟先生、せっかくならお茶していきませんか? 可愛らしい新作の練り切りが売ってたから買ってきたんです」
玄関前での立ち話。琴音は童孟にエコバッグを掲げて見せた。
客に出す和菓子は清史郎が作ることが多いのだが、今後のアイデアの参考にするために新作和菓子を見つけたら買ってくるように言われているのだ。といっても、最終的には琴音たち従業員のおやつになるのだが。今日は大目に買ってきたので童孟の分もあるはず、そう思って誘ったのだけれど、
「そうかい。新緑の庭木を眺めながらの一服もいいもんだけど、これから行かなきゃいけないところがあるもんでね。またの機会にするよ」
と、あっさり断られてしまった。
そういえば、前にこの小道で彼と一緒になったとき、童孟が弟のところに行くと言っていたのを琴音は思い出す。
「今日も弟さんのところですか? 仲いいんですね、童孟先生と弟さんって」
なにげない気持ちから出た言葉だったが、童孟は小首をかしげると、いつになく苦々しげな笑みを浮かべた。
「いや、恥ずかしながらその逆なんだよ。昔、派手に喧嘩をしてしまってね。それ以来、顔を見ることすらかなわない。話しも聞いてもらえないから、毎日こうやって手紙を届けにいくんだよ」
童孟は懐から折った和紙を取り出して見せてくれる。そこには、達筆な字で『孔孟へ』と書かれていた。
「こうもう……さん、ですか?」
「ああ。孔孟という。私の双子の弟なんだ。腕のいい外科医だったんだが、いまはどうしているんだかな……。そうだ、一つ面白い話をしてやろうか」
童孟はそう言うが、彼の寂しげな笑みにはこれから面白い話をしようという気配はまるでなく、双眸は沈痛な光をたたえている。それがなんだかとても苦しそうで、琴音はそのまま黙って彼の話に耳を傾けていた。




