第48話 楽しいお使い
五月も上旬をすぎ、そろそろ葵祭が近くなると料亭の仕事もさらに忙しくなってくる。普段の営業に加えて、裏葵祭用の特製弁当の準備が入ってくるからだと清史郎は教えてくれた。
裏葵祭りってなんだろう? 葵祭なら、京都三大祭りに数えられる有名なお祭りだということくらい琴音も知っている。
毎年五月十五日に行われる祭りで、京都御所から上賀茂神社の間を平安装束を纏った人々が練り歩くものだ。
でも、裏葵祭なんていくらネットで調べても出てこなかった。
とにかくその祭用に注文を受けた特製弁当の準備のため、いつもは飄々としたところのある清史郎もなんだか忙しそうだ。
そのため、車を使うほどでもない現世での買い出しは琴音がお使いに行くことも多くなっていた。
「それじゃあ、行ってきまーす」
厨房に声をかけると、清史郎が顔を出して「いってらっしゃい。気をつけてな」と声をかけてくれる。
「そんな心配しなくても大丈夫ですよ。ちょっとそこまでお使いにいくだけなんですから」
「うん。でも、裏葵祭が近づくと、いろいろ今までと違うものも集まってくるから本当に気を付けて」
「はーい」
違うものってなんだろう? と内心首を傾げつつも、靴を履くと表へ出た。
門から祇園の通りへと出ると、四条河原町のほうへ歩いていく。
「と、そうだ。買い出しに行く前に、寄らなきゃいけないところがあったんだ」
祇園を出たところで、琴音はもう一つ済ませたい用事があったことを思い出した。
それは、郵便局に局留めにしてある郵便物を取りに行くこと。
電話が通じる「おおえ山」でも、現世の郵便屋さんに郵便配達してもらうことはできない。郵便配達してもらおうにも、配達員に「おおえ山」が視えないからだ。
そのため現世で「おおえ山」に郵便物を送ってもらうときは、最寄りの郵便局の局留めになるように宛名を書いて送ってもらうようにしていた。
いつもお世話になっている地元の郵便局へ行くと、局長さんが琴音の顔を見て「何通か来てたよ」とすぐに郵便物を渡してくれる。
ほとんどは仕入れ先からの請求書だったが、その中に一通、琴音が待ち望んでいた郵便物を見つけた。
はやる気持ちに勝てず、郵便局から出るとすぐに封筒を開けて、中に入っていたホチキス止めの紙の束を確認する。
(うん。これではっきりした。早く善治くんに教えてあげなきゃ)
それは、大阪の法務局から届いた法人の登記事項証明書だった。
善治に頼まれていた、彼が昔勤めていたという会社の記録だ。そこには彼が知りたがっていた情報が載っていた。
琴音はそれをトートバッグに仕舞うと、次は錦市場へと向かう。
錦市場は河原町通りから一ブロック北側にいったところにあった錦小路通にある商店街で、魚や京野菜といった生鮮食品、乾物、漬物、おばんざいなど様々な専門店が集まっている。京都特有の食材ならなんでもそろうというまさに「京の台所」ともいうべき市場だった。
幅はさほど広くないが東西に四百メートルほどの長さがあり、アーケードに覆われているため雨でも傘なしで買い物することができる。
そのため天候にかかわらず、錦市場はいつでも沢山の人でにぎわっていた。
いろいろなお店が並んでいて、散策しているだけでも楽しい。そのうえ、お団子や豆腐ドーナツ、抹茶和菓子などのスーツから、棒天ぷらや一口サイズのだし巻き卵にウナギの串といった小腹を満たしてくれる総菜まで、食べ歩きできるものがあちこちの店で売られているので、ついつい買い物ついでに買い食いしたくなってしまうのだ。
(でも、今日はいろいろ買わなきゃいけないんだもの)
琴音は買い食いしたい気持ちをぐっとこらえて、メモ片手にお使いを済ませる。
それは乾物屋の前で、清史郎ご指定の昆布を買っていたときのことだった。
『お嬢さん。いまはよくないものが集まってきているからね。気を付けるんだよ』
喧騒に紛れて、そんな声が聞こえた気がした。
「……?」
体を起こして声の主を探すと、少し離れたところに一人の紳士が立っているのが目に入る。
クラシックなダークブラウンのスーツをきっちりと着こなした、五十代くらいとおぼしき男性だった。
彼は琴音の視線に気づくと、かぶっていたフェルトハットを脱いで胸に当て、しずかに笑みを浮かべた。その瞬間、瞳が赤く光ったように見える。
(……え)
軽い既視感を覚える琴音。前にもどこかで似たような瞳を見たことがある気がした。それが何かを思い出す前に、「まいどあり。これお釣りね」と乾物屋のおじさんに声をかけられる。
「あ、ありがとうございます」
今買ったばかりの昆布が入ったビニール袋とお釣りを受け取って、もう一度その男の方へ視線を戻したときにはもう、そこには誰もいなかった。
「あ、あれ? いまさっきまでいたのに」
きょろきょろと辺りを見回してみても、それらしき人影はどこにも見当たらない。目を離したのはほんの数秒のはずだったのに、まるでこの場から忽然と消えてしまったかのようだった。
琴音は昆布の袋を持ったまま、小首をかしげる。
(いまの瞳……清史郎さんが鬼の力を使うときの目と似てた……かな……?)