第40話 化かしのレッスン
清史郎とともに琴音と豆福も一階へと降りていくと、ガラス窓を開けた縁側に全身灰色の毛におおわれて犬のような顔立ちをした作務衣姿の男性が座っていた。狛犬のあやかしであるイネの旦那だ。
その隣にもう一人、見覚えのある派手な羽織姿の人物がいる。
彼は、琴音たちを見かけるとにこやかに手を振った。医者の童孟だった。
「おや、琴音。すっかりここに馴染んだね」
「お久しぶりです、童孟先生。今日はなんの用事でいらしたんですか?」
まだ店の開店時間には早いし、彼に頼まなければならないような病人はいないはずだけどと疑問に思っていると、彼は懐から何かの布包みを取り出した。
「はじめて化かしの練習をするあやかしがいるって聞いてね、これを届けにきたのだよ」
彼が手のひらの上で布包みを開けると、そこには飴玉ほどの大きさの黒く丸いものがあった。
「あら、ええ香りどす。これ、香どすな」
と、豆福が顔を綻ばせる。
「お、さすが鋭いね。そう、私が調合した香だよ。安息香や没薬なんかを練りこんであるんだ。精神を集中させて、化けやすくするのに効くからね。慣れればこんなものなくても化けられるようになるだろうけど、こういうのはコツを掴むまでが大変だからさ」
そこに、清史郎が金属製の網の蓋がついた丸っこい陶器の容器を持ってくる。
「香炉、これでいいかな」
「お、充分だよ」
童孟はその香炉を縁側に置くと、蓋を開けて中に入っていた灰の上へ特製の香をのせる。マッチで火をつけてから手を扇のようにして火を消すと、ふわりと煙が立ち上った。煙とともにバニラのように甘く、それでいてスパイシーな香りがあたりに漂う。
香りが充分に充満したところで、それまで黙って成り行きを見ていたイネの旦那が立ち上がった。
「よし、やるべ。オラは阿空っちゅうだ」
「豆福どす。よろしゅうお頼みもうします」
豆福は縁側に手をついて深くお辞儀をした。
そんなこんなで豆福の化かし修行は始まったのだけど、はじめは全然上手くはいかなかった。
手本を見せてくれる阿空は、ひょいっと一瞬で犬に化けたり、鳥やネズミに化けて見せる。しかし豆福は阿空のいう通りに精神を集中させ、化けたいものを一生懸命思い浮かべているようだったが、二時間ほど頑張ってようやくできるようになったのは、振袖姿のお尻からひょろっと細いしっぽが生えただけだった。
「……あきまへん」
しょぼんと傍から見ても分るほど大きく肩を落として落ち込む豆福に、犬の姿からひょいっと自在に人型へと戻った阿空が励ますように肩を叩く。
「まだ習いはじめだ。少しずつできるようになったら、ええだよ。慣れれば化けるだけじゃなく、姿を完全に人間から見えなくすることもできるだ」
「も、もう一度きばってみるどす」
そんな二人の修行風景を縁側で眺めていた琴音だったが、ふと腕時計を見てみるともう朝の八時近くになっていた。
「あ、やだ! もうこんな時間になってる! さっき整理したゴミを出してこなくちゃ!」
慌てて立ち上がり、二階へと駆けて行こうとしたところで、廊下の隅に隠れるようにしてたたずんでいた人影に驚いて立ち止まる。
「きゃっ!?」
不審人物!? と慌てたが、よく見たら善治だった。そういえば、いつも豆福のそばにいる善治を今日は見かけないなと思ったが、こんなところにいただなんて。
「何やってんのよ、善治くん」
「いや、あの……豆福、頑張ってるから」
「見てたいんなら、もっと近くに行って見てればいいんじゃない?」
しかし、善治はおどおどと視線を逸らす。
「……なんや、オレがそばにおったら、豆福の邪魔になってしまうんちゃうかなと思うて……」
それで柱の陰にセミみたいにへばりついて、遠目に眺めていたようだ。
琴音はじとっとした目で善治を見やる。
「……善治くん。豆福さんがここ出て行っちゃうのが、寂しいんでしょ」
琴音の指摘に、善治はギクッと大きく肩を揺らした。
図星だったようだ。
この感情が表に出やす善治の気持ちを、あの何かと鋭い豆福が気付かないはずがない。それが善治にもわかっているから、こうして豆福から離れているのだろう。
「それなら、善治くんも一緒に化かし方を教えてもらって、豆福さんについていけばいいんじゃない?」
「そうやねんけど……」
善治は口ごもる。まだ何か言おうとした琴音だったが、ゴミ回収の時間が迫っていることを思い出して「また、あとでね」と善治をそのままに、階段の方へと走っていった。




