第38話 ガラス職人さんの苦悩
男が風呂を借りてこざっぱりとしたところで、琴音と豆福は彼を門まで見送った。その際、「あとで食べてください」と弁当を渡したら、彼は感極まった様子で目元を手で何度も拭う。
「ほんとに、何から何までありがとうございます。きっと、この代金は払いに来ます」
そう言って男は深く頭を下げた。
「それはあんまり気にしないでください。払えるときでいいですから」
「そんなわけにはいきません。あ、そうだ。名刺どこ行ったかな……あ、あった、これだ」
彼はコートのポケットから一枚の名刺を取り出して渡してくれる。琴音が受け取ると、そこには『ガラス工房 青泉』と書かれていた。
「ガラス工房さん……ですか?」
「ええ。岩倉のあたりでガラス工房をやっています、青泉修一といいます。工房といっても僕一人でやってる小さなとこで、ガラス細工やガラス食器なんかを細々と作ってます。でも、腕にはそれなりに自信はあったんですが、商才はからっきしなかったんでしょうね。客が来ないあげく、ガスも水道も止められて金もなくてこのありさまで」
彼……青泉は面目なさそうに頭を掻いた。
「今日も祇園に住む知り合いのところに金の無心にきたのを断られて途方に暮れていたところでした。そこに飯のいい香りがしてきたもんで、ついつられて店の中に入ってしまいました。それなのに、こんなに温かくもてなしてくださって……」
再び滲んできそうになった涙を、彼はごしごしと手の甲で拭う。
でもその目には、初めて彼を見たときのうつろな印象とは打って変わって、しっかりとした生気が感じられた。
「またお腹すいたらいつでも来てくださいって、うちの店主も言っていました」
そう伝えると、初めて彼の口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。でも、次は自分の金で堂々と食べに来れるように、また頑張ろうと思います。ほんとうに、ありがとうございました」
爽やかな笑顔で手を振りながら、彼はまだほの暗い祇園の通りを帰っていった。
「さて、早く戻ろう。今日はお客さんが多いから、善治くん一人じゃ大変だろうし」
赤い火の玉が等間隔に両脇を照らす小道を屋敷のほうへと戻ろうとした琴音だったが、豆福がいつまでも門の前に佇んでいることに気が付いて足を止めた。
「豆福さん?」
琴音が声をかけると、豆福は名残惜しそうに祇園の街並みを眺めた後、つっと琴音に目を向ける。しゃらりと彼女の花簪が揺れた。
「琴音はん。アテ、決心しました」
「え?」
「アテ、これからの身の振り方をずっと考えてたんどす。でも、青泉はんや善治はんのことみてて、ようやく決心つきましたんや」
彼女の目は再び門の外の祇園の街並みに向けられる。
「ここ『おおえ山』におらしてもらうんも、えらい楽しゅうおました。そやけど、アテはやっぱり、祇園の中におりたいいう気持ちが日に日に強くなってどうにもならんのどす。善治はんも前にいた会社を探してはりますやろ。実はアテも、昔お世話になった置屋を探してたんどす。そうしたら、いまも祇園で営業してはることがわかりました。……アテ、置屋のお母はんにえらい世話になっとったんどす。そやのに千鳥ヶ淵であんなことになってしもて、えらい迷惑をかけてしもたんや。そやからその償いとして、今度はアテが見守りたいんどす」
それは彼女が「おおえ山」を去って、その置屋へ行くことを意味していた。
「それは……善治くんにはもう伝えたの?」
いつも一緒にいる二人のことだ。豆福がここを去るということは、善治も当然一緒についていくのだろうと琴音はすぐに思った。
「これから話すつもりどす。そやけど、アテがおった鶴屋はここからちょっと行ったとこどすし、ご近所さんみたいなもんどすから。善治はんは、善治はんの好きなようにしたらええと思うとります」
「そっか……たしかに、ご近所さんよね」
一応、現世と、その狭間という空間的な違いはあるのだろうけど、「おおえ山」の正門が祇園のこの場所とつながっている限り、歩けばほんの数分の距離であることに違いはない。
善治がその豆福の話を聞いてどう思うのかはわからないけれど、少なくともあのにぎやかな善治のことだから大騒ぎになるんだろうなと考えて、琴音は小さくフフッと笑みをこぼした。
そして翌日、豆福にそのことを告げられた善治は、大騒ぎするどころか逆にショックが強すぎたのか何もしゃべらずに布団の中にこもってしまい、豆福だけでなく琴音も清史郎も心配でおろおろしてしまうのだった。




