第36話 今度の珍客は、人間?
そうして季節は廻り、庭の桜の大木が一斉に新緑を芽吹きはじめるころ、世間ではゴールデンウィークを迎える。
普段現世で暮らしているあやかしたちも、この時期になると幽世に遊びにくる者たちも多くいて、「おおえ山」もほぼ満席になる日が続いた。
もしこの忙しい時期に仲居が琴音一人だったら到底回しきれなかったことだろう。清史郎も予約を絞ることを考えていたそうだが、豆福が仲居の仕事を手伝ってくれ、それでもさばききれないときは善治も配膳や注文取りに回ってくれる。そんなわけでなんとかこなせていた。
そんなある日。
琴音が食べ終わった食器をお盆いっぱいに載せて厨房へ戻ろうと廊下を急いでいたところ、善治が反対方向からやってくるのが見えた。彼は琴音を見るやいなや、たたっと駆け寄ってくる。
「琴音さん。ちょうどよかった」
「どうしたの? 善治くん」
善治は何やら困った様子で、正面玄関の方を指さした。
「予約外で来た客がおんねんけど、ちょっと様子が変やねん」
「様子?」
「なんかえらい弱ってるみたいで、玄関に座り込んでる。それにたぶんあの人、生きた人間やと思うわ」
「……え。人間のお客さん!?」
ここ「おおえ山」は現世と幽世の狭間にある。そのため、ここに来る客のほとんどはあやかしたちだ。
昔は人間の客もいたというが、最近はあやかしを見たり幽世への入口を見つけられる人間は極端に減ってしまって、この店へたどり着くことのできる人間はめったにいないらしい。
しかし、普段はあやかしの類を見ることのできない人間であっても、極端に心身が弱り切ってしまうと見える場合があるという。思い返せば琴音がこの料亭にたどりついたときも、そういう弱り切った状態だった。
玄関にいるという人間らしき客はどっちなのだろう。考える間もなく、善治が言う「えらい弱ってて」という言葉がそれを示しているように思えた。
「善治くん。これ、お願い。私ちょっと行ってくる」
琴音は手に持っていたお盆を善治に押し付けると、小走りで玄関へと駆けていった。
その背後から、善治の声が飛んでくる。
「今日はもうカウンターもテーブルも個室も全部満室やて豆福が言うてた」
「わかった! ありがとう!」
廊下を抜けて玄関へ行くと、二つの人影が目に飛び込んできた。
一人は艶やかなだらり帯と着物姿。すぐに豆福だとわかる。
そして、もう一人。
無精ひげに薄汚れたコートを着た男性が、玄関の壁にもたれて石畳の上に座り込んでいた。
「あ、琴音はんっ」
豆福は琴音が来たことがわかると、強張っていた表情をほっと緩める。
「善治くんから聞いたわ。人間のお客さんって……この人よね」
「はいどす。さっきふらふらと暖簾くぐって入って来はったと思ったら、ここに座り込んでしもて動かれへんのどす」
豆福もどう対処していいのか困り果てている様子だ。
琴音は玄関の端に置かれている従業員用の草履に足をいれると、彼の前まで行って膝をついた。近づくとほのかに、何日も風呂に入っていないんだろうなという匂いも漂ってくる。
「大丈夫ですか……? どうされました……?」
顔を覗き込むが、男は目を閉じてぐったりと壁に背を預けたまま座り込んで動かない。
どう見ても大丈夫そうではなかった。
もしどこか苦しいとか痛いところがあるのならすぐに救急車を呼びたいところだが、あいにく現世ではないこの場所に来てくれる救急車などない。
童孟はあやかし専門のお医者さんだけど、人間も診てくれるんだろうかといろいろ頭の中で考えを巡らせていると、気絶したかのように動かなかった男がうっすらと目を開けて琴音の方に手を伸ばした。
「……なんか、食べものを……もう三日も、まともに食べてなくて……」
掠れた声で訴える男。
後ろで雑にひとくくりにしたぼさぼさの長い髪には半分くらい白髪が混ざっている。そのため最初は年配の人かとも思ったが、声からするともっと若そうだ。ただ栄養が足りてないのか、肌も唇もガサガサになっている。
「わかりました。いま、ご用意しますので、少々お待ちくださいね」
琴音は丁寧に言うと、このあと彼をどうもてなせばいいのか考えながら立ちあがり、上がり框へ足をかけた。
その琴音の手を、男が急につかんでくる。
「あ、あの……僕、お金ぜんぜんもってないので、その、残飯とか野菜の屑とかでいいので……」
急につかまれて一瞬びっくりしたものの、申し訳なさそうにしている男に琴音はにっこりと笑顔を返した。
「大丈夫です。こういうときは出世払いにするよう、うちの店主も言ってましたから」
琴音の言葉に、男は心底ほっとしたように表情を緩めた。




