表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/60

第25話 千鳥ヶ淵の記憶

 善治は深い後悔とともに、水の底に沈んでいた。

 もうどれだけの月日が経ったのかわからない。

 水底に多く茂った水草に絡めとられるように、その場から動けなくなったまま時が止まっていた。足が、まったく動かないのだ。まるで川に沈む石ころと同じものになってしまったようだった。


 そうやって水の底に座り込んで浅い眠りとわずかな覚醒を繰り返すその合間も、思い出すのは『あの日』のこと。

 激しい後悔の念が胸の内側を掻きむしり、いまも善治の心を蝕み続ける。


 ここに縛り付けられて動けないのが嫌なのではない。それはもうとっくにあきらめた。

 永遠にここに留まることになろうとも、そんなことはどうでもよかった。

 すべて善治自身が招いた結果なのだから、仕方がない。受け入れるしかない。


 だって、あの人を襲わせてしまったことに比べたら、そんなことは些細なことだから。

 




 善治には、生前、想い人がいた。彼女は花のように可憐な女性で、祇園花街で生きる人だった。


 まだ働きに出たばかりの善治にとっては、本来手の届かない存在のはずだった。

 しかし、たまたま社長のお供でついていった際に彼女と出会い、そして一瞬で恋に落ちてしまう。彼女の一挙手一投足にひきつけられた。ほんのわずかだったけれど、一緒にいられる時間はかけがえのないものだった。


 だがほどなくして社長の足が花街から遠のき、必然善治も行くことができなくなる。


 でも、彼女に会いたくて。一目見たくて。

 借金したくても、まだ若い善治にそんな信用も貸してくれる相手もなく。我慢できずに、会社の金に手を付けてしまった。


 そんなことをしてバレないはずもない。警察がやってきて善治は追われた。自宅や友人宅にも刑事が張り付き、頼れるような実家もない。

 せめて、あのとき自首しておけば、まだよかったのだろう。罪を償ってから、もう一度真っ当になって彼女に会いに行けばよかったのだ。


 だが、警察に追われていることを知ったとき、善治は逃げてしまった。

 大阪にある自宅から京都までほうほうの(てい)で逃げてきた。

 止せばいいのに、祇園まで行って最後に一目豆福に会いたいと強く願ってしまったのだ。もし彼女が許してくれるなら、一緒に逃げようとすら考えていた。


 しかしそんな善治の甘い考えが叶うことはなく、嵐山に入ったところで警察に見つかってしまう。


 仕方なく善治は川沿いを走って逃げた。渡月橋を渡って反対岸へ逃げようとしたが、そちらからも警察官たちが追いかけてきてついに追い詰められた。行き場をなくした善治は渡月橋から大堰川へと飛び込むしかなかった。


 それでも、警察官たちもようやく追い詰めた善治を逃がしてなるものかと、岸からロープを投げて捕えようとしてくる。

 とっさに善治は水の中に潜った。大阪淀川の川べりで育ったのだ。川泳ぎには自信があった。


 そのはずだったが、潜った途端に水の中にいた何かに足を引っ張られた。驚く間もなく、次から次へと水中に腕が現れて引っ張ってくる。


 それらはここ、千鳥ヶ淵に身を投げ命を絶ったものたちの慣れの果てだった。人間への憎悪に凝り固まった亡者たちは、もはや悪霊ともいうべき存在となっていた。善治はそのまま浮かび上がることもできず、命を落とす。そのあと肉体がどうなったのかはわからないが、気が付くと善治の意識は水の底から離れられなくなっていた。


 でも、悲劇はそれだけでは終わらなかった。


 善治が死んでから、しばらく経ったのちのこと。

 その日も、大堰川には昼間、舟遊びや渓流下りを楽しむ観光客が多くやってきていた。千鳥ヶ淵の上も、楽し気な声を上げて生者たちが通り過ぎていく。


 いつものように彼らが去っていく下で、亡者たちは水底にたまるヘドロのように息をひそめていた。


 しかし、そのとき。はしゃぐ生者の声の中に、善治は聞き覚えのある声があることに気づく。


 忘れようとしても忘れられない。一日、いや一瞬たりとも忘れたことなどなかった、恋焦がれる懐かしい声がした気がした。

 その声に善治が反応して水面を見上げると、いくつかの小舟の船底が見えた。

 そこに、一つの小さな手がするっと水の中へ垂れる。細く長い、美しい形の指。


(……豆福……豆福なん?)


 その手に善治が意識を向けたときだった。

 静かだった水底がぞわりと動く。

 底に沈んでいた悪霊どもが、善治の意識に呼応したように動き出してしまった。

 それらは、一斉にその小舟から垂れる小さな手へと向かって泳ぎだす。


(……あかん! 行ったら、あかん!)


 悲鳴のような声をあげて善治は悪霊たちを引き留めようとしたが、逆に善治の方が邪魔をするなとばかりに水底に押しとどめられる。そうしている間にも、あちらこちらからたくさんの悪霊たちが起き上がりその白い手のほうへ向かっていった。


(逃げてや! 頼む、そいつらから逃げて!!!)


 善治の悲痛な願いもむなしく、悪霊たちはその手に次々としがみついて、いとも簡単にその手の主を水の中へと引きずりこんだ。

 水の中に落ちた、艶やかな舞妓姿の少女。振袖が水の中を漂っていた。


 その少女と一瞬目が合ったような気がした。


 彼女は間違いなく、善治が誰よりも大切にしたかった豆福、その人だった。記憶の中でずっと大事に思い続けて居た彼女よりも少し大人びて、そして美しかった。

 しかしその口から最後の空気が泡となって出ると、豆福はぐったりと全身の力をなくす。


 なんとかして彼女を助けたくて善治は手を伸ばしたが、何人もの悪霊に押さえつけられてそれ以上身動きすらできなかった。


 すべて一瞬ともいえる、わずかな時間の出来事だった。


 すぐに小舟からドボンドボンといくつかの人影が川の中へと飛び込んでくる。豆福と一緒に舟遊びに付き添っていた男たちのようで、彼らは豆福の体を抱き上げるとすぐに船の上へと引き上げた。ぐったりとしたまま引き上げられていく豆福。


 小舟の上がどうなっているのかは水底からはわからない。小舟は急ぐように下流へと去っていった。


 再び水底に静けさが戻ってくる。

 その静謐(せいひつ)を善治の慟哭が破った。


(うわあああああああああああ!!!!)


 自分が招いたことだった。もし自分が豆福に意識を向けなければ、そこに強い気持ちを込めて見上げたりしなければ、悪霊たちはきっと動き出したりしなかっただろう。


 殺してしまったのだ。何より大切にしたかった人を、守りたかった人を、自分のせいで死なせてしまった。

 その事実が善治の心にのしかかる。どれだけ後悔してもしきれない。


 その後何年も、何十年もその後悔は善治の心を(さいな)み続けた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ