第24話 水の中にうごめくモノ
豆福がパサリとコートのフードをあげると、艶やかな花簪に彩られた日本髪が現れる。
ついでコートも脱いで、舞子姿が露わになった。
「お借りしたもん、どないしましょう」
豆福はコートを丁寧に畳んで返してくれるが、水がしたたり落ちるほどぐっしょりと濡れている。
「あ。これに入れておいてください」
あらかじめ予想していたことだったので、琴音は用意していたビニール袋をトートバッグから取り出して、それに入れてもらうことにする。
千鳥ヶ淵周辺は春の麗らかな日差しが水面を照らし、穏やかな空気が流れていた。とても静かではあるけれど、かつてここが自殺の名所だったなんて琴音には信じられなかった。
「豆福さん。水中で善治さんを見たっていう場所、覚えてますか?」
清史郎が尋ねると、豆福は美しい眉をきゅっと寄せて何かを考えたあと、すっと右手を伸ばして川の一角を指さした。
「たぶんやけど、あの辺やと思います。ただ……もう何十年も前に大きな洪水に見舞われたことがあったんどす。そんときに、川岸が削られて木々もぎょうさん流されてしまいました。それで、川のまわりの様子が変わってしもたせいで、正確にココいうのがわからんようになってしもとるんどす……」
豆福は自信なさそうに言う。
「とりあえず、そっちに行ってみます」
清史郎はボートを漕いで豆福が指さした地点へとボートを進め、そのあたりで停めた。
ボートが止まると豆福はボートのへりを両手で掴んで、熱心に水面をのぞき込む。
琴音も膝の上に置いていた風呂敷包みを解いて、すぐに椿餅を取り出せるように準備しながら水面を見てみるが、緑色の水は透明度が低く、底までは到底見渡すことはできない。
「やっぱり、濁ってて見えませんね。どうしましょうか? 豆福さんに場所を選んでもらって、何か所か椿餅を落としてみます?」
そもそも善治がいまもここにいるという保証もないのだ。ある程度当てずっぽうに落とすしかないんじゃないか、そんなことを思いながら清史郎に尋ねる琴音。
清史郎もオールを置いて水面を見ていたが、
(……え?)
彼の雰囲気が、どことなくいつもと違うように感じた。
何が違うのだろうか。違和感の正体を探って彼をじっと眺め、琴音はある事に気が付く。
(……あ。目が……)
水面を見つめる清史郎。普段は黒い彼の瞳が、今は赤く燐とした光を帯びていた。
それだけで印象がずいぶん変わる。いつもは人と何ら変わることのない清史郎だけど、ああ、やっぱり彼はあやかしなんだ。鬼と呼ばれる種族なんだと思い知らされた気がした。
いつもなら琴音がじっと見るだけで挙動不審になる清史郎だったが、今は琴音の視線にすら気づかないようで、その赤い光を帯びた瞳を水面から離さない。
「……なんか、いるな」
彼は何かを目で追うようにしながら、そう呟いた。
「い……いるって、善治さん、ですか?」
「いや。水の中をたくさんの霊らしき影が漂っている。着物を着ている古そうな霊が多い。ここは昔、自殺の名所だったから、浮かばれない霊たちの慣れの果てだろう。そいつらに邪魔されて、底までは見えない。それで、豆福さんにも水の底に何があるかわからなかったんだろうな」
改めて水面を見てみるが、琴音には変わらず緑色の濁った水が見えるだけ。一体、彼にはどんなものが見えているのだろう。
と、そのとき。
「善治はん! どこにいはるん! アテ、椿餅持ってきたんやで! 善治はん! いたら返事して!」
豆福がボートのへりをつかんで、悲鳴のような声で叫んだ。
「堪忍しておくれやす! アテが、善治はんに会いたい言うたから。そやから、こないなことになってしもて。アテ、善治はんにもう一度会って謝りたかったんや……」
善治がここにいると思うと、冷静な自分を保てなくなったのだろう。豆福は身を乗り出して水面に顔を近づけ、必死に川の中を覗き込む。覗きすぎて、川の中に落ちてしまいそうだ。百年前の光景を再現してるかのようだった。そのときも豆福はそうやって小舟から覗き込みすぎて川の中に落ちてしまったのだろうか。
「それ以上は、危ないっ……!」
すぐに清史郎が手を伸ばすと、水の中に落ちそうになっていた豆福の帯を掴んで支える。彼女を引き戻す際にボートが大きく揺れた。
「きゃっ」
予想していなかった揺れに、琴音も慌てて右手でボートのヘリを掴む。
しかし、態勢を崩した拍子に膝の上に乗っていた三重の重箱が膝から落ちそうになった。とっさに左腕で抱え込むようにして重箱を押さえたものの、一番上の段が外れて落ちてしまった。
「あ……!」
一番上の段はボートのヘリに当たると、はねた拍子に中に入っていた椿餅がいくつかボートの外に飛んでいく。ぽちゃぽちゃと水音を立てて水面に落ちると、あっという間に緑の水の中に沈んで見えなくなった。
落ちていく椿餅を琴音はなすすべもなく見送るしかできない。
「……すみません」
しゅんとして肩をすぼめて謝る琴音に、豆福もゆるゆると首を振る。
「アテのほうこそ、申し訳ありまへん。気が急いて、取り乱してしもとりました。清史郎はんが掴んでくれへんかったら、また川の中に落ちるとこどした。アテ、泳がれしまへんのや。また死んでしまうとこどしたわ。それに、もとよりこのあたりに椿餅を投げるつもりどしたから」
赤い唇にほのかな笑みを浮かべる豆福に、琴音の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「善治さんに届いているといいですよね。さぁ、ほかにも善治さんがいそうなとこ、あったら教えてください。まだ椿餅いっぱいあるんで、どんどん投げちゃいましょう!」
元気を取り戻した琴音が、豆福にそう伝えたときだった。
笑みを浮かべていた豆福の目が、急に大きく見開かれる。
(え……?)
豆福の隣にいた清史郎が、慌てた様子で素早く立ち上がり琴音の方に手を伸ばしてくる。
二人がなぜそんな反応をしているのか琴音には理解できず怪訝に思った次の瞬間。
琴音は強い力で全身を引っ張られた。あっという間にボートのヘリを越え、トボンという大きな水音とともに、琴音の体は冷たい春の大堰川の水の中へと引っ張り込まれた。
(え……な、なに……? 何が起こっているの????)
ぶくぶくと沈む身体。
泡のようなものが視界を多い、全身を何かに絡みつかれて身動きできない。
息が苦しい。呼吸ができない。
水中のゆがむ視界で琴音の目がとらえたのは、自分の腕を、足を、体を、頭を、体を掴んでいる無数の半透明な腕だった。




