第23話 千鳥ヶ淵へ
そうこうしている間に、渡月橋の端へとたどり着く。
渡月橋はわたらず、もう少し川沿いに上流へと進んだところに神社があった。そのあたりで豆福と待ち合わせることになっていたのだが、腕時計を見ると待ち合わせした時間よりもまだ少し早い。
この周辺は渡月橋までの人の賑わいとは打って変わって、ぐっと人けが少なくなる。琴音はあたりをきょろきょろと見渡してみた。
「豆福さん、まだ来てないですかね」
「そうだな……」
清史郎も辺りに視線を巡らし……。
「「あ……!」」
二人は同時に声をあげた。
神社の裏手の少し山になったところ。その藪の中から、小さく白い手がこちらにむかって「おいでおいで」しているのが目に飛び込んできた。
あれは、知らずに見かけたら幽霊か何かだと思って悲鳴をあげてしまいそうだ。いや、豆福も前は幽霊だったらしいからあながち外れてはいないけれど。
とりあえず清史郎とともにその手のほうへ登って行ってみると、藪の陰に隠れるようにして豆福がいた。しかもしゃがみこんで、小さくなっている。
「どうしたの? 大丈夫?」
もしかして吐き気がするのかな? と心配になって琴音は彼女の背中に手をあてた。ぐっしょりと濡れた冷たい感触が伝わってくるが、豆福はゆるゆると頭を横に振った。
「どうもしてません。ただ……こないに人の多い時間に人のいるところに出てくるのは久しぶりやったから、なんや緊張してしもて」
「そ、そっか……」
そういえば、豆福は幽霊になったばかりの明治時代末期、千鳥ヶ淵に舞子の幽霊が出ると噂になったせいでやじ馬がたくさん集まってきて以来、昼間は人目につかないように隠れていたと言っていたのを思い出す。だから、まだ日の高いうちにたくさんの人のいる場所に出ていくのは怖いのかもしれない。
「……なんなら、俺たちだけで千鳥ヶ淵へ椿餅を持って行ってもいいんだが」
そう清史郎は提案するが、豆福は再びゆるゆると首を横に振った。
「いいえ。アテも一緒にいきます。もう、こそこそせぇへん。ここできばらな、祇園の舞妓の名が廃れます」
そう言って小さなこぶしをきゅっと握ると、すっと立ち上がった。
その姿は、初めて彼女が料亭に姿を現したときの、虚ろで意思をもたない人形のような姿とはまるで別人のようだった。
すっと背筋が伸びて、その目はしっかりと川へ向けられている。そこには、善治のために何かをしたいという気持ちが漲っていた。
「じゃあ、行きましょう? 善治さんのところに」
ぽんと彼女の背を叩いて琴音が言うと、豆福は琴音の目を見て大きくうなずき返した。
はかなげな豆福も美しいと思ったけれど、今のきりっとした彼女はそれよりもずっと美しい。思わずその姿に見とれそうになるものの、琴音は自分の手にもっていたものを思い出して彼女に差し出した。
「そうだ。これ、もってきたんです。千鳥ヶ淵についたら脱いでもいいんで、それまで着ておいたらどうかしら?」
「なんどすか?」
琴音が手に持っていたのは、清史郎のコートだ。それを豆福の肩にかけると、小さな彼女の体はコートの中にすっぽりと納まってしまった。
振袖があるので袖は通すことができないけれど、前を止めてしまえばとりあえず鮮やかな振袖の着物は見えなくなる。そのうえ、フードをかぶれば、華やかな花簪も隠れた。
これはこれでちょっと怪しくはあるけれど、少なくとも目立ちにくくはなっただろう。
いまは、桜の季節。満開にはまだ数日かかりそうだが、大堰川の両岸に植えられた桜も七分咲きを迎えていて、風光明媚な景色を目当てに川遊びをする観光客も多い。
こんな時期にうろうろするなら、少しでも目立たない姿をするのに越したことがない。最近では、祇園でも通りを歩く舞妓たちに観光客が集まる姿もよく見られる。もしここでそんなことになったら大変だ。
準備がすむと、三人で貸しボート屋へと向かった。
貸しボート屋の小さな建物の前で白髪のおじいさんが客寄せをしているのが見える。
「すみません。ボートを一台お借りしたいんですが」
琴音が声をかけると、おじいさんは愛想よく返してくれる。
「いらっしゃい。どうぞこちらへ」
しかし彼は琴音と清史郎を見た後、その後ろに隠れるようにしてついてくるコート姿の豆福にも視線を向けた。
そのことに琴音は内心心臓がバクバクする。どうしよう。私の体で視線を遮ろうかしら、でもそれって怪しいよねと悩んでいたら、清史郎が助け舟を出してくれた。
「一時間いくらですか?」
と尋ねる彼の質問におじいさんの関心はすぐにそちらへと移り、おじいさんはもうそれ以上豆福のことを気にする素振りは見せなかった。
料金を払うと、おじいさんは先を歩いてボートのところへと先導してくれる。
そして川岸にロープでつながれていたボートのひとつを手繰り寄せた。
「はい。気ぃ付けて乗ってな」
おじいさんに手を取ってもらって、一人ずつボートに乗っていく。最初に清史郎、次に琴音で、最後に豆福が乗り込んだ。
「じゃあ、いってらっしゃい」
おじいさんがロープを外して足で押すと、ボートはゆっくりと岸を離れた。
「清史郎さんって、ボート漕いだことありますか?」
念のために聞いてみるが、
「いや……渡し舟には乗ったことがあるけど」
と、あまり頼りにならない答えが返ってくる。渡し舟って、一体いつの時代のことだろうか。とにかくボートを漕いだ経験があるのは琴音しかいないようだったので、必然的に琴音がオールを握ることになった。
(さて、漕ぐぞ!)
ボートの真ん中に座るとオールを両手に持ち、ゆっくりと前後に円を描くように動かす。でもボートを漕ぐのなんて数年ぶりだったから、最初は右と左のオールがばらばらに動いてしまってなかなかまっすぐ進まない。それでもなんとか四苦八苦しているうちに扱いにも慣れてまっすぐ進むようになってきた。
でも、上流にある千鳥ヶ淵へボートを向けたとたん、急に進みが遅くなってくる。流れに逆らって漕がなければならないため、オールにぐっと力がかかって思うように進まなくなった。
すると、琴音が漕ぐ様子を興味深げに眺めていた清史郎が、不安定なボートの上で立ち上がると琴音のそばまでやってきた。
「だいたいやり方はわかった。代わるよ」
「お願いします」
代わりに彼が持っていた重箱を受け取り、琴音はボートの前へと移る。
清史郎がオールを握ったとたん、ボートの進むスピードがぐんと速くなった。ボートを漕ぐのは初めてだと言っていたが、すぐに要領をつかんでどんどん進んでいく。
琴音たちのボートは他のボートがたくさん舟遊びをしている一帯を抜けて、ぐんぐん上流へと登っていった。
「すごい……さすが、パワーが違う……って、そろそろかな。ちょっと待ってくださいね。いま、場所を確認します」
琴音はいまいる場所を確認するために、肩に下げていたトートバッグからスマホを取り出した。バッグの中には、財布にスマホ。それにハンカチくらいしか入っていないはずなのだが。
(あれ? なんだろう? この白い布)
バッグの底に見覚えのない白い布がぺろんと入っていた。こんな布入れた覚えあったかしらと首をかしげるが、とりあえずそのままバッグにしまっておいた。
スマホの地図アプリで場所を確認してみる。地図上に『千鳥ヶ淵』と表示されているわけではないが、大堰川沿いのとある寺の川べり一帯が千鳥ヶ淵とかつて呼ばれていた場所だと清史郎に教えてもらっていた。琴音たちの乗るボートはもう、その寺が見えるあたりまで来ている。
「たぶん、このあたりじゃないかと思うんです」
ついに千鳥ヶ淵までやってきた。
しんと静まり返った深緑色の水面。周りに他のボートをはじめ、人の気配はまったくない。
はたして、この深く濁った水の中にいまも善治はいるのだろうか。




