第18話 小さな疑問
二日後の定休日に千鳥ヶ淵へ椿餅を持っていくことを約束すると、豆福は「よろしゅうお頼もうします」と丁寧に深くお辞儀をして帰って行った。
彼女を見送るとすぐに部屋へと戻り、水でいっぱいになったカナダライを二人で運んで庭に水を捨て、畳と廊下の水けをふき取る。
「ふぅ。……なんだか変わったお客さんでしたね」
雑巾片手に琴音が言うと、空になったカナダライを抱えて清史郎も小首をかしげた。
「そうだな。まぁ、なんにしろ頼まれたことはやるけど、……椿餅って水に沈むんだっけ」
そういえばそうだ。椿餅どころか、そういった和菓子の類を水に沈めた経験なんてないから、はたして千鳥ヶ淵に持っていってもちゃんと沈んでくれるのかどうかすら、琴音にはよくわからない。
「そっか……沈まなかったらどうしましょう」
「とりあえず、いくつか試作品をつくって実験してみないとな。餡の量を多めにしたり、何か重石になるようなものを混ぜてみたり。まわりを包むのも道明寺粉だと水の中でばらけてしまうかもしれないな」
せっかく千鳥ヶ淵に椿餅を持っていっても、ちゃんと沈まなかったらきっと豆福を悲しませてしまうにちがいない。
それだけは、なんとしても避けたかった。
「それにしても、善治さん。なんで、ずっと淵の底に沈んでいるんでしょうね。水面の上では百年以上も豆福さんが会いたがって待っていたのに……」
椿餅を淵に放り込むのも奇妙な話だが、それ以上に豆福の話を聞いていて奇妙に思えたのはそれだった。
あの二人はずっと百年以上も同じ淵の水底と水面という非常に近い場所にいたはずなのに、なぜ豆福はいまだに善治に会えないのだろう。
それには、清史郎も唸る。
「うーん。あくまで憶測にすぎないが、二人とも元は地縛霊だったんだろうな。不幸な死に方をすると、たまにそういうことがあるんだ」
「地縛霊、ですか?」
「死んだときの思いが強すぎるあまり、死んだ場所に縛り付けられて動けなくなる霊のことを地縛霊っていうんだ。それでも時が経つにつれて消滅したり、逆に他の似たような霊と混ざり合って悪霊と化してしまったりするもんだけど。少なくとも豆福さんは相手への思いが強すぎたのか、消滅することも悪霊になることもせず、あの姿のままあやかしになってしまったみたいだな。善治さんの方は、実のところ今も川の下にいるのかどうかすらわからない。もしかしたらもう成仏するなり消滅するなりしてしまっててもおかしくない年月は経ってるし」
「そっか……そういう可能性もあるんですね……」
もし善治がもう川の下にいなかったとしたら。それを知ったとき、豆福はどうなってしまうんだろう。それを考えると、とても怖かった。彼女は今ですら善治への想いだけでギリギリ理性を保っているように見える。それがもし、ずっと何年も何十年も見つめ続けた水面の下に、想い人がいなくなっていたとしたら……。
清史郎の抱えるカナダライを見つめながらじっとそんなことを考えていたら、清史郎が不思議そうに眉を寄せた。
「……どっか穴空いてるのか? このタライ、相当古いやつだからな。たしか昔、うちに洗濯機が来る前に使ってたものだし」
「え?」
清史郎を見上げて、きょとんと瞬きをする琴音。物思いにふけるあまり、カナダライをじっとみつめすぎて勘違いされたと気づき、ぱたぱたと顔の前で手を振る。
「違います違います。つい、考え事してたらぼーっとしちゃって」
えへへと笑う琴音。それを見て清史郎も「なんだ」とふわりと笑った。
(おおっ!?)
仕事中は始終真面目な表情をしている清史郎がふと見せた柔らかな笑顔に、琴音は思わずきゅんと胸が高鳴る。
(こんな表情もするんだ)
思いがけず、ちょっとかわいいかもなんて思った。そんなことを琴音が考えているとはつゆ知らず、清史郎はカナダライを抱えたまま廊下を歩きだす。
「善治さんがいまどうなっているかは現地に行ってみないとわからないから、いま考えたって仕方ない。俺たちにできるのはちゃんと沈む、美味しい椿餅を作ることだけだ。あとで市場に行って材料探してみる。その前にとりあえず、腹減ったから飯食おう」
「はーい」
厨房の方へ歩いていく彼の背中に、琴音もついていく。
その背中を見ながら、琴音はまだぼんやり考えていた。
(笑うとちょっと年下っぽく見えるのね、この人。ん? 人? 鬼? まぁいいや。……仕事以外ではほとんど顔合わせないから、笑顔なんて久しぶりに見たなぁ)
そうなのだ。同じ屋根の下に住んでいるのに、なぜかプライベートな時間ではほとんど屋敷の中で顔を合わすことがないので、仕事以外での彼の姿をほとんどしらない。
仕事終わりの朝ごはんは一階のカウンターで一緒に食べることが多いが、昼ご飯は琴音が目を覚ますとカウンターの上に置いてあるのを一人で食べるだけだし、夕ご飯は仕事の合間の休憩時間にそれぞれ賄いをささっと流し込む感じだ。
琴音自身は気ままに自室や洗面所、ふろ場などを行き来しているけれど、その途中で清史郎と出会うことがいままでほとんどなかった。
(うーん。もしかして、私、避けられてるのかな……)
うすうす感じていたそんな疑問が頭をもたげてくるが、料亭の仕事では毎日顔を合わせるし、嫌われている感じもしない。そもそもここで働いてほしいと言ってきたのは、清史郎の方なのだ。
(なんでだろうなぁ)
本人に聞けばいいのだろうが、「仕事以外では、なんで私を避けるんですか?」なんてなかなか口に出せなかった。
ちなみにこの日の賄い朝ごはんは、鯛のアラ汁とお客さんにも出したタケノコの白みそ和えだった。どちらもとてもおいしくて、夢中で食べているうちに心のもやもやはいつの間にか忘れてしまっていた。




