第14話 ずぶぬれ舞妓さんの事情
「ちょ、……しょ、少々お待ちください。いまお席を確認してまいります」
琴音はなんとかそれだけ口にすると、あたふたと厨房に取って返す。
予約のない客が来店することはしばしばある。そういうときは、席が空いていれば店にお通しするのだが、今回の客からは明らかに他のあやかしたちとは違う異様な雰囲気が漂っていた。
だから、清史郎に判断を求める必要があると感じたのだ。
「せ、清史郎さんっ。どうしましょう」
厨房に清史郎の背中をみつけて、心の中でほっと胸を撫でおろしながら声をかけた。
「ん?」
菜箸片手に振り返った彼に、琴音は玄関を指さす。
「予約のないお客さんが……。でもなんだか様子が変なんです」
「わかった。一緒に行く」
手早く業務用コンロの火をすべて止めた清史郎とともに、琴音も玄関に戻る。
土間にはまだあのずぶぬれの舞子がぽつんと佇んでいた。
その足元に目をやって、琴音は「ひっ」と喉の奥を鳴らす。
先ほどは着物から滴る水が彼女のぽっくり下駄の周りに小さな水たまりを作っているくらいだったが、それがこのほんの数分の間に半畳ほどの大きな水たまりになっていた。そのうえまだぽたぽたと彼女の全身から落ちる雫は止ることなく、水たまりを広げ続けている。
琴音もはじめてこの料亭にやってきたときには、大雨に振られてずぶぬれな姿でこの土間に立っていた。しかしあのときだって、ここまで土間を濡らした記憶はない。
しかも今夜は快晴だ。新月のために空に月は見えず、暖簾の外は闇に覆われているが雨は一粒も降る気配などなかった。
彼女はいったいどこで、ここまでずぶぬれになったのだろうか。
舞子は清史郎に目を止めると、青ざめた細い指を清史郎に伸ばして再び震える声で、
「お頼もうします。どうか……どうか椿餅を、つくっておくれやす」
と繰り返した。その目は虚ろで、まるで意思をもたない人形のようだった。
琴音はその姿がただもう恐ろしくて、清史郎の背中に半分隠れるようにして後ろに控えていた。
しかし清史郎は玄関の上で膝をついて、まっすぐに彼女と向き合う。そこには、どんな客であっても、この祇園おおえ山の暖簾をくぐったものには真摯に向き合うという彼の姿勢が表れていた。
「椿餅は、材料に椿の葉が必要です。いまは切らしてますので、何日か日にちをいただけましたらご用意できますが」
そう丁寧に伝えると、それまで能面のようだった舞子の顔に初めて動揺のようなものが浮かぶ。
彼女はくしゃりと目元をゆがめた。目が赤くなり、はらはらと大粒の涙が水に濡れた彼女の頬を伝っていく。
「はやく……はやく食べさせてあげたいんどす。善治はんのとこにたんと持って行ってあげたいんやけど、アテでは運ばれしまへんのや。アテが持つと何もかも水浸しになってしもうて」
両手の甲で流れる涙をぬぐって、泣きじゃくりはじめてしまった。
(どうしよう。何やら事情を抱えているみたいだし、このまま帰すわけにもいかなさそうよね)
清史郎の背中の後ろでおろおろしながらもそんなことを考えていた琴音は、ふと人の気配を感じて廊下の方を振り返った。そこには玄関での騒ぎを聞きつけたのか、野次馬をしに客が数人集まってきていた。
あやかしたちは、どうも好奇心旺盛なものが多いようだ。
玄関で美しい舞子が泣きじゃくっていれば気にもなるだろうが、彼女を好機の目にさらしてしまうのも申し訳ない。
琴音は野次馬たちに、
「いま、次のお料理をお持ちしますので、もうしばらくお部屋でお待ちください」
と、にっこり有無を言わさない笑顔で伝えた。ついでに、野次馬たちと舞子の間に立って彼女が見えないようにすると、野次馬たちも諦めた様子でしぶしぶと自分の部屋へ帰っていった。
その間も、清史郎と舞子のやりとりは続いている。
「とりあえず、あったかいお茶でも飲んでいきますか? 詳しいお話を伺えれば、よりご要望にあったものをご提供することもできますし」
いつもより幾分やわらかい声音で清史郎が舞子に提案すると、彼女は涙をぬぐう手をとめて少し迷うそぶりを見せた後、こくんと小さくうなずき返した。
さて、そうとなればすぐに彼女をどこか空いている個室へ案内しなければ。予約帖を調べてみると、ちょうど個室が一部屋空いていた。
さっそく彼女を、そちらへと案内する。
舞子は丁寧にぽっくり下駄を手でそろえて土間に置くと、流れるように滑らかな動作で立ち上がり、先導する清史郎のあとを静かについていく。
そのしぐさひとつひとつがため息がでそうなほど美しい。ただそこにいるだけで、ただ歩いているだけで絵になる華やかさと美しさがあった。ずぶぬれでさえなければだが。
しかも彼女の濡れ具合は尋常ではなく、土間の水たまりはもう畳一畳よりも大きくなっていたし、彼女が歩くと床に水の筋がついた。
これはもはやただ濡れているのではなく、彼女自身から水が湧き出ているとしか思えない。
「こちらへどうぞ。いま、お茶とお菓子をお持ちします」
清史郎が彼女を案内したのは、琴音が初めてこの料亭にきたときに案内されたのと同じ部屋だった。漆のテーブルに、赤皮の座面がアクセントになっている椅子も同じ。
「さあ、こちらにお座りください」
琴音が奥の椅子を引いて促すと、舞子は軽く頭を下げて静かにその椅子に腰を下ろした。
しかし、その足元にはすぐに水たまりができはじめている。あまり水浸しになると畳が傷んでしまいそうだ。
「タライとかあったほうがいいんでしょうか……」
「……そうだな。一応、聞いてみようか」
清史郎が舞子に椅子の下にタライを置いていいかと尋ねると、彼女は「ええ、かましまへん。お手数おかけしてしもて申し訳あらしまへんなぁ」と、嫌がる様子もなく承諾してくれた。
彼女の言葉は京都の花街独特のもので、とてもやわらかい。ただ、顔にわずかに表情が出てきたとはいえ、始終うつむき加減で浮かない様子。いまもまだ、時折目じりに浮かんだ涙を指で拭っている。
一度厨房に戻った清史郎が、熱いお茶と桜の花びらを模した練り切りをもってきた。
「もうすぐほかのお客さんたち帰られますんで、そうしたらまた来ます。それまでこれでも食べてお待ちください」
窓の外はまだ暗いけれど、そろそろ二番鳥が鳴いて夜が明けてくるころ。そうなると店も閉店になる。
清史郎の言葉に、舞子はこくんとうなずいた。
琴音は、自分が使っている部屋の押し入れにちょうどよさそうな大きさのカナダライがあったことを思い出して、それを両手で抱えて運んできた。
そして舞子のいる部屋までやってくると、
「すみません。ちょっと失礼します」
彼女の椅子の下にこのカナダライを置かせてもらった。
ここは、お言葉に甘えて彼女から滴る……というかもはや彼女から湧き続けているように見える水をタライで漏れなくキャッチさせてもらい、畳を守ろう。
ただ思った以上にタライが大きくて、椅子だけでなく小柄な彼女自身もすっぽりとタライの中に入ってしまった。
「お客様たちをお見送りしたらまた来ます。その練り切り、いま京都で人気の和菓子屋さんのものなんですよ。お召し上がりください」
祇園の舞子なら、まだ京都に来て十日たらずの琴音より遥かに京都のおいしいお店には詳しいかもしれない。でも、目の前の舞子はおそらく人間ではないだろう。見た目は一見普通の人間と変わらないが、水が滴り続けるのは明らかにおかしい。
もし幽世のあやかしならば、人間たちの住む現世の食べ物は特に喜ばれるのでそう伝えてみたのだが、舞子は両手は膝の上に置いたまま。目はじっとテーブルに注がれてはいるものの、その眼には目の前の和菓子は映ってはいないようだった。




